ヨハネ福音書1章19~34節「キリストの二つ名 神の小羊」

説教

ヨハネ福音書1章19~34節「キリストの二つ名 神の小羊」

福音書記者ヨハネは彼の福音書の中で冒頭キリストのことを「ロゴス」という多義的な言葉をつかい、読者の既成概念を超えた存在であることを示そうとしました。救い主キリスト、神の偉大さ、絶対性を伝える為です。

1.多神教の神観、人間観、救済観

多神教の映し出す神様像は人にとって身近ではありますが、その近さは「卑近」です。ギリシャ神話の神様、ローマ神話の神様、日本神話の神様…すべてを網羅したわけではありませんが、そこに出てくる神様は、完全無欠、高潔で聖人君子のような神様でしょうか?神様どうしで喧嘩したり、横恋慕したり、物を奪い合ったりします。よく言えば親しみが湧くのでしょうが、その神話に出てくる神様像は人間像の鏡のようなものなのです。

穴に落ちて救われるべき対象を人間、その人間を穴から救いだす存在をカミ、神が施す救いを救助用具に例えるならば、穴の深さは2メートル足らず、引き上げてもらう人間は2メートルの穴のそこで自力で這い上がれるくらいの深さで、神がいるのも穴の直上2メートル、そして、その神から穴に向かって投げ入れられる縄梯子も2メートルの短いものといったところでしょうか?いってみれば神も低く、人も低く、救いも低い(短い)位置にあります。

2.ドケチズムの神観、人間観、救済観

ヨハネが読者にキリストの認識を改めてほしかったもう一つの理由は当時流行し始めていた、誤った教え、キリスト仮現説(ドケチズム)がためです。この教説の信奉者は神様は霊的なもの、高潔なものとは理解していました。が当時ギリシャの思想の一つの考え方である霊肉二元論という考え方に毒されており、それゆえ、

「神が卑俗で目に見える物質・肉体の形をとるなんてありえない」

と考えて、キリストの受肉を否定しました。そうなると、イエスキリストが、わが身を削って血を流してまで十字架にかかった贖いの信仰もなくなってしまいます。人は修行などを通じて、肉体の欲求を滅却し、精神世界に解脱してそのうえで神と出会う必要があることになります。先ほどの穴のたとえで言えば、遭難者が落ち込んだ穴の深さは10メートル、救助者は穴の直上10メートルにいるのですが、救助者が投げ入れる縄梯子の長さは5メートルで、底まで届きません。遭難者は穴の底からまず、5メートルは自力で這い上がってくださいという救済観です。神が高く、人は低いのですが救われるための救いのハードルが高い、(救いが短く寸足らずで届かない)になってしまいます。
そのためヨハネは当時のドケチズムの信奉者が思いもよらない救いを神様が提示してくださることを示すため、また、曖昧になっていた受肉を教理を明確にしておくために「ことば(キリスト)は肉となった」といったのです。

3.ユダヤ教の神観、人間観、救済観

ユダヤ教は一神教ですし、キリスト教と同じ神様です。しかし、ユダヤ教には選民思想というものがあります。神様は高いのですが救われるべき自分も選ばれた民、信仰の父祖であるアブラハムの直系卑属であるユダヤ人は救われる価値のある人間として、自身を、ユダヤ人以外の人間(異邦人)より高い位置に置きます。先ほどの穴のたとえで言うならば穴の深さは10メートル、人間(異邦人)は穴の底に落ちているけれども、救われるべき我々(ユダヤ人)は穴の底まで落ちておらず、穴の中腹5メートルのところに踏みとどまっており、神は穴の上から律法を守ることによって救われるという縄梯子をユダヤ人だけに届く距離である5メートルのところまで投げ入れてくださったというようなところでしょうか。

 

4.バプテスマのヨハネの運動がもたらした意味

さて、前置きが長くなりましたが、そこに現れた洗礼者ヨハネは、ユダヤ人にもバプテスマを施します。当時のユダヤ教で行われていた沐浴は、異邦人が選民であるユダヤ人に加えてもらうための儀式だったのですが、洗礼者ヨハネが起こした運動はそれがユダヤ人も含めて全ての人に必要であると訴える運動だったのです。つまり、神様は徹底的に高いがユダヤ人を含めて人は徹底的に低いと、教えたのです。例に倣って、穴の例えにするならば、穴の深さは10メートル、ユダヤ人も異邦人も穴の底に落ちていて、縄梯子にも届かないし、自力で穴を這い上がる力もない(自力救済できない)ことを神様の前に素直に認めてくいあらためよ(考え方、発想を転換せよ)という運動だったのです。

そのうえで、洗礼者ヨハネはイエス・キリストを「神の小羊」と形容するのです。実は意外なことにこの言い回し、旧約聖書には一度も出てきません。当時のユダヤ教では、罪びとが救われるためにはいけにえが必要とされていました。そのいけにえはそれまでのユダヤ教の常識では各人が律法に従って自分で用意する必要がありました。しかし、洗礼者ヨハネは「神の小羊」と表現したのです。「神の」は原語では所有格です。まさに神のものであった、神様の側から用意してくださった。神の一人子、イエスご自身がそのいけにえとなってくださったと表現したのです。

先ほどの穴の例えで言うならば、神は限りなく高いところおられ、人は自身が犯した罪のために際限なく低く、暗く、深い穴に落ち込んでしまった。しかし、この深い深い穴のそこに届くほどの救いのはしごを降ろし、キリストご自身がそのはしごを下ってこられ、私たちを穴の底から背負って引き上げてくださる。神は高く、人は低いが、救いの射程距離が長いので低いわたしたちにも届くといっているのです。

 

サムネイルはフーベルト・ファン・エイク作「ヘントの祭壇画(一部)」です。洗礼者ヨハネの形容した神の小羊による礼拝を黙示録の記述に従って可視的に表現したもの

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