ヨハネの福音書4章43~52節「神様は子の祝福を願う親の思いを挫かれない」

teisinnnomusukonoiyashi 説教
ジョゼフ=マリー・ヴィアン作「廷臣の息子の癒し」

神様は子の祝福を願う親の思いを挫かれない

ヨハネの福音書4章44節は、原文には頭に英語のforに相当するガルという接続詞があります。つまり、43節のガリラヤに赴かれた理由が44節だというのです。ところが、44節は「預言者は故郷では敬われない」というどちらかといえば、「故郷を訪問しない理由」とした方がふさわしい一文が書かれています。さらにはその結果、45節を見ると実際ガリラヤに到着すると歓迎されたというのです。

つまり、

敬意を払ってもらわないためにガリラヤに訪問し、

敬意を払ってもらわないために訪問した結果ガリラヤの人から熱烈な歓迎を受けたというのです。

全然文章がつながっていません。

43から44節にねじれがあり、44から45節にも文のつながりにねじれがあります。古代の教父オリゲネス等はこのまとまりのない文章を解釈するために、ヨハネの福音書1章などから引用するなどして、ガリラヤを「故郷」とみなすのではなく、エルサレムを霊的な「故郷」ホームグラウンドとみなし、そのエルサレムから離れてガリラヤに行く事がホームではなくて、アウェーなんだという解釈をしていました。しかし、この解釈には無理があります。48節でイエス様は、45節の歓迎を決して良い物としてではなく浅薄なものと理解していることがわかります。それは2章23~25節からも裏打ちされています。そして、その浅薄なご利益信仰の代表格として王の役人(46節)の信仰が槍玉にあげられているのです。新共同訳聖書はこのパラグラフにタイトルを付けていて、マタイ8章やルカ7章の百人隊長の記事を並行箇所として挙げていますが、場所がカファルナウムであること以外は申立人の職業も信仰の質も、患者の続柄も、イエス様の評価も異なっているのでこれは別の出来事と考えるのが妥当でしょう。

ただ、それだけ、子どもが病気にかかる事案が多かったということができるのではないでしょうか?本日は日本の七五三という文化に合わせて教会でも乳幼児祝福式を行っていますが、それは日本でもつい100年ほど前までは乳幼児の死亡率が二ケタを超えておりそれが平均寿命を押し下げていたのです。(成人に達した人間の平均余命は乳幼児死亡率ほどは劇的な変化をしていません。)

役人の信仰は褒められたものではありませんでした。はっきり言ってご利益(ゴリヤク)信仰でした。しかし、子の回復、子の祝福を求めた結果、ご利益を見ずに「イエス様のことばを信じる」という信仰に高められたのです。また、イエス様は役人が信じたから息子を救ったのでしょうか?役人の信仰が立派だったから救ったのでしょうか?主イエスの前にまで来たから救ったのでしょうか?いいえ。役人の中には誇れるものはなく信仰すら立派ではありませんでした。しかし、それらを全て超越して、救われたのです。また時間を超えて、空間を超えて救われたのです。あなたも、あなた自身は意識していないかもしれませんが、あなたの救いの計画はあなたが信仰を自覚する前から始まっているのです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました