三要文(さんようもん)といってプロテスタント教会では主の祈り、使徒信条と並んでモーセの十戒は礼拝の中で唱和されることが一般的です。また、政教分離の関係で最近はなくなりつつありますが、米国では公立学校でもモーセの十戒が掲げられていました。それほどまでにキリスト教倫理、道徳の基本のキとされてきました。
しかし、信じるだけで救われるイエス・キリストが成就してくださった福音と具体的な戒めを定めたモーセの十戒との関係性が分からず混乱しているキリスト者もおられるでしょう。現代も生きている律法の機能について月に1回ずつ10回シリーズで整理できたらと考えます。律法の第一の機能は神の完全なる義と私たち自身の罪深さと不完全さを私たちに映し出す鏡の役割を果すことです。ローマ7章7~11節、ガラテヤ3章19~24節
第二の機能は、悪を抑制することです。律法は私たちの心を変えることはできませんが、裁きの脅威によってある程度無法状態を抑制することができます。そして、ある程度社会秩序をまもり、正しい物を不正から守ります。申命記13章6~11節、ローマ13章3~4節。
第三の機能は「愛の応答」として新生した者を導いて、神が彼らの為に計画しておいた良い行いをさせることです。エフェソ2章10節。「今日の聖句」は救いとは直接関係なく、この第三の機能を語る文脈でイエス様が言及されたことでありました。
ここで勘違いしないでいただきたいのは、第一の機能も第二の機能も、第三の機能も人間が完全に律法を守れることを前提にはしていません。誰一人神の律法を守れないのです。守れないからこそ、主イエスキリストの十字架による救いが誰にも必要なのです。
律法は神の子であるクリスチャンに彼らの天の父が何を喜ぶかを教えてくれます。その意味では神の家族にとっての家訓ということもできるかもしれません。出エジプト20章2節はわたしとあなた、互いを名前で呼び合える特別な関係性の中に私たちを招き入れようとする恵みのことばでもあるのです。
サムネイルはレンブラント・ファン・レイン作『ユダヤの花嫁』
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