ヨハネの福音書8章12~20節「キリスト・イエスは世を照らす光」

説教

キリスト・イエスは世を照らす光

ヨハネの福音書8章中段はイエス・キリストの「わたしは世の光である」という言葉にファリサイ派の人が粘着して問答となるところです。一見すると当たり障りのないことばのようですが、どうして、ファリサイ派はここまで執着したのでしょう?ヨハネの福音書の中でイエス様がご自身のことを「わたしは〇〇である」と宣言する言葉はギリシャ語で「エゴーエイミ」です。エゴーは「エゴイズム」や「住民エゴ」等という日本語にもなっていますが一人称単数の人称代名詞でギリシャ語では省略しても意味は通じます。それを敢えて「エゴーエイミ」ということは、ただ単に「私は」というよりは「(他の何物でもない)私(こそ)が〇〇である」という唯一性、排他性をもった宣言だったのです。だからこそ、ユダヤ人、ファリサイ人はイエス様に食ってかかったのです。ファリサイ人は自分で自分の真実を証言しても循環論法になるから間違いだといえば、イエス様は自身は「公準」みたいなものなのだから、そもそも証明が不用であると宣言されました。また、敢えて申命記22章にある裁判で最低限必要な証人は2人という当時の律法に則ったとしても、父なる神様が聖書その他を通して雄弁に語っていると極言されます。ファリサイ人が「イエスの父とは誰か」と問えば、わたしを知ることが父を知ることの十分条件だからとさらに反論されています。当時の宗教界の最高権威者、しかも、神殿の宝物殿のあるところ、宗務事務所の目の前でイエス様が論戦されたことを見て、福音書記者のヨハネは、イエス様は、よくこの時に逮捕されて十字架にかけられなかったものだ。イエス様が十字架にかかられたのは、早すぎることも、遅すぎることもなく、まさに神様が定められたときに、私たちの救いを成就するために自ら十字架にかかられたのだと感嘆しています。皆さんは権威ある神の真理ととりますか?狂った宗教家の妄言と取りますか?キリストは暗闇(罪・死)から私たちを救うために来たと宣言し、キリスト者とはその宣言に魅せられた人たちなのです。

 

サムネイルはアレクサンドル・アンドレイェヴィチ・イワノフ作「民衆の前に現れたキリスト」

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