ルカ22章31~34、54~62節「主のまなざし」 

ヒエロニムスフランケン作ペテロの否認 説教
ヒエロニムスフランケン作ペテロの否認

主のまなざし

私たちは人間関係の中で自分自身の評価を決定して、喜びもすれば悩みもする。しかし聖書は、神と私たちの関係こそ最も重要な問題である、と教えている。主イエスと筆頭格の弟子ペトロの関係は、一つの典型的な事例として聖書に記されている。

1.主の赦し

神の御子イエスは自ら人間となって、私たちに対する神の愛を具体的に示してくださった。愛するとは第一に、その人を赦すことである。ペトロはイエスの筆頭弟子であるが、彼は三度も主を「知らない」と言って否む。主イエスはそのような彼の弱さを知りつつ、彼を赦し、彼の信仰が無くならないように祈られた。そして主は彼に弟子たちの牧会を託された。それは、多く赦された彼こそ人を赦し、慰め、励ますことができるからである。

2.主のまなざし

主イエスが捕らえられていくと、弟子たちは師を見捨てて逃げ去った。ペトロは遠く離れてついていくが、大祭司の家の中庭でそこにいた人たちに「この人も一緒にいました」と言われて、三度これを否定した。その時、主が予言されたとおり鶏が鳴いた。〈主は振り向いてペトロを見つめられた。それは彼を責めるまなざしであったのか。否、そのまなざしには、深き憐れみがあった。主はすでに彼を赦しておられたのだから。

実に御子イエスは、このような私たち人間の弱さを理解して、憐れみ深い大祭司となるために、自ら人間の体と心を持って、この世で生きてくださったのである(ヘブライ2:14-18)。

3.主の十字架

主を否んだペトロは〈外に出て、激しく泣いた〉。彼は自分の弱さ・罪深さに打ちひしがれた。聖書のいう「罪」とは、神を裏切ることである。実に主イエスは、そのような私たちの罪を赦すために、御自分の命を十字架に献げて下さった。主イエスは今も天にあって大祭司として、私たちの信仰が無くならないように、私たち一人一人のために父なる神にとりなして下さっている。

 結語

主に赦され、主に愛されて生きるお互いである。互いに赦し合い、励まし合って共に十字架の道に従って行こう。

※説教は日本バプテスト同盟門真キリスト教会の金井望牧師による

※サムネイルはヒエロニムス・ロドリゲス作 聖ペテロの否認 絵の右奥にペテロを見つめる主イエスがおられる

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