ルカ11章1~13節 求めよさらば与えられん 主の祈りの本当の意味

説教

サムネイルはジャン・シメオン・シャルダン作「食前の祈り」

ルカ11章1~13節 求めよさらば与えられん 主の祈りの本当の意味

説教題はクリスチャンでない方もご存じなセリフだし、主の祈りも非常に有名です。しかし、案外知らないことも多いのです。ルカ伝の主の祈りはマタイ伝のそれと比べて短いです。新約聖書27巻が揃うまでの初代教会において、特にマタイ伝の普及がおくれ、ルカ文書、パウロ文書が先に普及した教会ではルカ伝にある主の祈りを礼拝の時に唱えていた教会もあったことでしょう。つまり、私たちが毎週唱える主の祈りはもともと、祈りの定型文、式文、口碑ではなく、祈りの大まかな指針をしめした、エッセンスだったということです。また、イエス様は主の祈りを例示した後、真夜中の緊急訪問者のたとえを伝えた後、たとえの結論として、神様は祈り求める者には聖霊を与えてくださるとおっしゃっているのですが、聖霊が与えられるのはイエス様の十字架のあと、50日たって、ペンテコステまで待たねばなりません。つまり、祈り方について弟子たちからの求めに応じて教えてはみたが、祈り求めた者に与えられる聖霊というものは教えられた時点ではまだ与えられず、弟子たちにとっては、実感、体験の伴わない、空手形、知識に留まっていたということでしょう。  主の祈りの前段、御名と御国を求める祈りは三人称命令形で書かれていて、自分のおかれている周りの環境が、そうあってほしいという強い願い、祈りが現れています。また、毎日の必要な食事を求める祈りは、後の真夜中の訪問者のたとえのパン3つと対称となっています。最後に罪の許しと誘惑に耐えれない自分の弱さを内省した切実な祈りになっています。 真夜中の訪問者のたとえで一か所ミスリードなのは8節の「しつように頼めば」です。これは原文では恥も外聞も関係なく、厚顔無恥に、恥を忍んで頼めばと書かれていて、しつこく何度も頼むという意味はありません。最初にその読み込みをしたのは護教家クリストストモスでその解釈が後代まで引きずられています。恥を忍んで頼まねばならないほど深刻な事態、窮状なのであって訪問者のしつこさによって要求がとおるのではなくて、訪問された人が訪問者の窮状を憐れんだからこそ、救済されたのです。弟子たちが神を父と呼んでいいということ、そして父なる神様が私たちの窮状を憐れんで下さり、罪を赦し、聖霊をくださるということを知識でなく弟子たちが心底わかるのは、エルサレムでのイエス様の十字架の出来事を待たねばなりませんでした。

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