チ。原作4話を神学してみた。死刑より火葬が怖いC教徒

ポトツキを脅すノヴァク サブカルを神学してみた
ポトツキを脅すノヴァク

チ。原作4話を神学してみた。死刑より火葬が怖いC教徒

アニメ3話、原作の4話で異端審問官ノヴァクはラファウの義父ポトツキを「このままでは死刑判決をうけて火刑に処される」と脅します。その時ポトツキが火刑で死ぬことよりも恐れたことを今回はフォーカスします。

異端審問をうけて有罪になった者、正統的な教理に改宗しなった者が死刑になる場合、歴史的にはその多くは火刑に処されました。しかし、教会の教えには「異端は火刑にしろ」などと言った公式記録はなく、もちろん聖書のどこにも「火刑にしろ」などと書いていません。それどころか聖書には「火刑」の用例自体ないのです。教会の教えにも聖書にも火刑なんてないのに、「異端審問や魔女狩り=火刑」が慣行とされいたのにはそれなりに理由があったのでしょう。諸説ありますが、理由の一つとしては異端に関わるとろくなことがないと思わせるため、世俗の権力、宗教裁判所とは別の世俗の司法当局による観衆に対する見せしめであったと思われます。第二にカトリックでは、遺骸や遺品を崇敬の対象としていたので(聖遺物崇拝)、死後に遺骸や遺品が残るとそれが形見となってなって、崇拝の対象になる恐れがありました。それはかえって異端の勢力を強めてしまうので、一切を灰燼に帰すことが求められたのでしょう。

第三に、伝統的なキリスト教の価値観では、最後の審判の時まで肉体が残っていなければならない。火刑は肉体を燃やし尽くしてしまうため、苦痛もさることながら、宗教的な観点から見ても恐ろしい厳罰でした。「異端者を現世より完全に消滅させる」という意味合いでも、最も重い刑罰の一つとして火刑が多用されたという節もあります。

チ。の物語の中でもポトツキが恐れたのがこの第3の点でした。

私が、「チ。地球の運動について」という作品に惹かれるのは原作者の魚豊先生がこれでもかというほど細かいところまで正確に考証して調べているかと思いきや、フィクションとして作品を魅力的にするためだと、歴史上重要な点をバッサリとカットしたり、善悪を真逆に描いたりするところなのです。

本当にこのマンガ(アニメ)凄くないですか?中世キリスト者の死後に自信が肉体を伴って復活できるだろうか?という信仰上の非常に繊細な機微に触れるところを描き出すのです。

現代日本においては火刑はありませんが、火葬はあります。あらためて考えて見ると不思議な葬儀の風習です。日本人は葬儀までは死装束、死化粧、損壊された遺体の修復など、遺体の見栄えについては外国の葬儀の慣習以上にこだわります。ところが(もちろん公衆衛生上の要求があるのですが)最終的には火葬という徹底的な遺体にダメージを与え、さらに埋葬するときには喉仏など遺骨の一部を骨壺につめるだけで、その遺骨の大部分は共同墓地で供養するという名目で散骨してしまうのです。

私の知り合いの宣教師のお父さんで、(※その方はお父さんも宣教師だった)。仮にMさんとします。Mさんは晩年日本に骨をうずめるさい、この日本の火葬の風習にものすごく悩んでいたクリスチャンのひとりでした。最終的には火葬することには了承したものの、「骨上げの時は、一部だけを骨壺に収めるのではなくて、ひとつ残らず収めてほしい」また「骨上げの時に骨壺に収まるように骨を箸でサクサク砕いているのを見たことがあるが砕かずに大腿骨まで含めてそのまま骨壺に収めてほしい」と要望されたようです。その宣教師のお父さんが葬られた納骨堂に一度入ったことがあるのですが、そこには、大きな花瓶よりもはるかに大きい特注の骨壺が納らえているのを覚えています。

 

日本人クリスチャンの多くは、この火葬の問題をクリアできています。では宣教師のMさんをバカにできるかといえば、日本人クリスチャンの多くは、死後に復活することをもちろん信じているもののどこか、霊魂だけが復活して、むしろ肉体から解脱して極楽浄土のようなところでふわふわと浮いているような、霊肉二元論っぽいキリスト教の教える終末観から逸脱した復活をイメージしてしまっている方が多いように思うのです。それに比べて、このMさんの信仰を馬鹿にすることがどうしてできるだろうと思うのです。

クリスチャンは霊魂だけでなく、物質としての肉体を伴った(その体は病気になったり、老化したり、けがをしたり、死んだりするような今の肉体とは別次元の肉体だとも聖書は教えています。)状態で復活するということを本気で信じていることを尊重したいし、そのクリスチャンの死後の復活に関する日本人のクリスチャンでも理解しきれていない非常に機微な部分をマンガやアニメとして描いているこのチ。地球の運動についてという作品に敬意を表したいと思います。

 

コメント

  1. ハチドリ より:

    Mさんから見たら、私たち日本人クリスチャンにありがちな“霊魂フワフワ”的な復活観の方こそ、“?”な感じでしょうね。

    とすれば、Mさんの葛藤をバカにはできませんね。程度の差とか、葛藤の内容の違いはあるにせよ、「わかっちゃいるけどなんか割り切れない・心がついていかない」的なものとか、考え方のクセみたいなものは、誰にでも意外とあるのだろうと思いました。

    ただ、そういうものに自分(達)自身で気づくのは難しいのかもしれない、とも思いました。対照的な、或いは異質な他者の存在があって初めて、自分(達)が持っている“無意識的な当たり前”のヘンテコさに気付けるのかもしれません。

    異質な他者は時に脅威でもありますが、しかし、そうした他者の存在によってしか気付けないような“大切なこと”もあるんだと思います。

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