フォイエルバッハにご用心

教会と国家

フォイエルバッハにご用心

たまには小難しいことをつぶやいてみる。
キリスト教の指導的立場にありながら共産主義政党の政策に同調する人の何に私を問題視しているかといえば厳密にいえばその政治的志向ではない。聖書の読み方、神学の姿勢なのだと思う。日本共産党が綱領で自らの定義づける「科学的社会主義」とはすなわち「マルクス・エンゲルス主義」のことであり、マルクス、エンゲルスの共通の思想上の師はフォイエルバッハという神学者に行きつく、そして、このフォイエルバッハというのは青年ヘーゲル派(ヘーゲル左派)に属する哲学者・神学者である。そう、マルクス主義とは大別すればヘーゲル哲学に属するのだ。で、このヘーゲルかぶれというのは、本人が意識する、意識しないは別として、東京都知事よろしくアウフヘーベンを多用する。世の中のすべての事象に適用できる物差しのように錯覚してしまうのだ。アウフヘーベン「正・反・合」は動きあるものを説明したり理解するのに役にたつのだが、そのために、聖書の読みも、信仰生活における適用も、あまりに動的(dynamic)なものに偏ってしまう。聖書が書かれたのは言うまでもなく、ヘーゲルよりもはるか昔に書かれたものでそのすべてを正・反・合で読み替えてしまうのは、アナクロニズムとの批判を免れないだろう。聖書はむしろ、然りは然り、否は否といった静的(static)な記述が主だと考える。ポストモダン、相対主義が極限にまでたっし、不安定な社会だからこそ、むしろ、staticな聖書解釈こそ、時代は求めているのではないだろうか

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