チ。原作6話を神学してみた。盲人が盲人を導く/神曲の世界観

盲人が盲人を導く サブカルを神学してみた
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チ。原作6話を神学してみた。 盲人が盲人を導く/神曲の世界観

さて、第二章の主要人物オクジーの厭世的な考え方に対して同僚のグラスが慰めようとします。しかし、慰めようとするグラスもまた、自殺未遂をしたことのある問題を抱えた人でした。この話、マタイの福音書15章14節にイエス・キリストがたとえに出した、「盲人が盲人を導く」という状況に似ています。さらに言えば、グラスの抱えていた問題というのは、疫病で家族全員が死に、それが為にグラス自身も自殺しようとした過去があったのです。

実は聖書の中に似たような境遇の人がいます。旧約聖書のヨブ記にでてくるヨブです。彼は聖書の中で義人とされ、神の前にその想いも行いも正しい人でした、しかし、物語の冒頭で妻を除いて家族が皆不慮の事故で無くなってしまい、自身も重い病気にかかってしまって、その時自殺こそしないものの、自分がこの世に生れてきたことを呪う・・・旧約聖書の中ほどにそんなお話しがかかれています。

そんな絶望のふちにいるヨブを三人の旧友が見舞いに訪ねて慰め励まそうとするのです。

が、このヨブの友人が曲者なのです。聖書は因果応報思想を嫌いますが、この旧約聖書のヨブ記に出てくるヨブの友人は因果応報思想の持ち主で、ヨブが不幸なのは神に対して罰当たりな何か悪いことをしたからではないかと問い詰め、一方ヨブは神の前に後ろ暗いことは何もしていないと反論するというお話しです。40章を超す大著ですが、その80%はキリスト教の教えではない、因果応報思想の是非についての無駄な議論に終始します。

聖書を読んだことのない人にとっては聖書って、「〇〇しなさい。」「〇〇してはなりません。」といった「べからず集」というイメージがあるかもしれませんが、中には永遠と無駄な議論をするという文学作品なんかも含まれています。

この辺の遊びのあるあたりが、聖書、キリスト教の懐の深さを形成しているのかなとは思います。

天動説の世界観≒ダンテの新曲の世界観

さて、著者の魚豊先生ですが、聖書以外に当時のキリスト教の思想を理解するためにおそらく、ダンテの神曲からも、アイデア得ておられるのだと思います。

そして、前回引用した、神父やオクジーの思想にはダンテの神曲に通じる物があります。

神曲はまさにプトレマイオスの宇宙観を、当時の宗教観に落としこんだものともいえます。

著名な画家ボッティチェリがまさに神曲の挿絵をこのチ。地球の運動についての舞台と同じ15世紀に書いているのでその挿絵を下に貼っておきます。

ボッティチェリが天動説的世界観に基づいてダンテの神曲の地獄篇の挿絵を描いているころに地動説を後に提唱することになるコペルニクスは大学でアルベルト・プルゼフスキから講義をうけることになります。

地獄が何層にもなっており、中心にいくほど、重く悪い罪を犯した者が落ち込んでいくという世界観(あくまで当時のプトレマイオスの宇宙観をもとにダンテがイメージした死後の世界であって、キリスト教の死後の世界、聖書の死後の世界がこれと同じというものではない)が、この絵をみただけで理解できるでしょう。

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