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お知らせ

『チー牛』と呼ばれる者でも救われる

ふざけたような説教題に見えるかもしれないが実は大真面目である。今回、説教題に用いたのは「水牛」ならぬ、「チー牛」である。水牛神学を知っている層はチー牛をしらず、現代における被差別階層であるチー牛もまた多くは水牛神学はおろか、神学 も キリスト教 も知らないでいる。21世紀の日本のキリスト教会は現代社会の狭間に落ち込んだ真の弱者に救いの手を差し伸べるべきだろうが、本当の弱者であるチー牛たちに届く言葉を持たないばかりか、本当の弱者であるチー牛を認識もせず、チー牛と呼ばれる人たちがいることすら、その言葉すら認識されていないのである。これはゆゆしき事態だ。
説教

ルカ福音書9章1~20節 イエスって誰? Who is Jesus?

9章前半では、72人の弟子が派遣され、イエス様から力と権能をあたえられ、イエスの名声がますますひろまります。領主ヘロデの所にまで耳に入り、イエスとは誰なのかと当惑することになります。次に4つの福音書に記されているイエス様在世当時で最大規模のしるし、五千人の給食の奇跡がおきて、今度はイエス様がペテロに、「群衆は私のことを誰だといっているか?」と問い、さらにはペテロ自身に「あなたは私を誰というか?」と問うています。これは、福音書記者であるルカが読者である私たちに、しつこく、何度もイエスとは誰かと問うているのです。
説教

ルカ福音書8章40~48節 いい加減な信仰なのに認めてくださった

 彼女の信仰理解は呪術的、御利益宗教的、機械的なものでした。このままでは彼女は真に救われないとみた主イエスは、自分から力が抜けていった原因となった彼女に正直に告白すること、人格的な交流を望まれました。その中で彼女は主に対して信仰は正統的、人格的、霊的、有機的なものに「観念」させられ、全てを正直に洗いざらいはなすことになりました。彼女はいつから「正しい」信仰を持っていたのでしょう。正しい信仰を持つ前から愛され、信仰も神が正していただけたのです。
お知らせ

2024年9月8日教会学校主催でピザパーティーをします。

今度の日曜日はお昼から教会学校主催でピザパーティーをします。参加無料です。みんな我孫子バプテスト教会に集まれ!#バプテス...
説教

ルカ8章26~39節「自己責任論では浮かばれない人たちへ」

イエス様は自己責任論で割を食う、人間社会全体の構造的な罪をも最終的には解決するためにもこの世に来てくださったのです。
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2学期以降は毎週水曜日午後3時からエンジョイプレイスを開催します。

夏休みが終わって、最初の #エンジョイプレイス (教会堂を開放し、地域の子どもたちに宿題をする場所や、居場所を提供する企画)は台風の接近で一時は開催が危ぶまれていましたが、台風の上陸が遅れにおくれていますので、本日は予定通り行います。
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コリント第一の手紙12章26~27節 あなたは一人ぼっちじゃない

バプテストとは、神様の前に見え、人には「見えざる教会」霊的教会と、人の前に建物や法人として「見える教会」を一致させようとする営為と言い換えることができるでしょう。そうはいっても一致させれないいろいろな事情があるのでしょう。パウロもそうでした。パウロはこのコリントの手紙を書いた時点で、どこの教会の教会員だったのでしょう。また、フィレモン書をみてみましょう。彼自身、見える教会のいざこざに翻弄され、見えざる教会とのギャップに苦しむ中で、キリストの体なる教会を構成するために召された者としていかに歩むべきかをと自問しつづけたのです。
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ゼファニヤ書2章1~7節 聖書の中のパレスチナ問題

パレスチナというのは「ペリシテ人の地」の意味です。ゼファニヤ書にもガザやペリシテの名が出てきます。ペリシテ人とはサムエル記で契約の箱を一時奪った民であり、ダビデ王のお話しに出てくるゴリアテや士師記のサムソンのお話しに出てくるデリラがペリシテ人です。
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ルカ福音書8章4~11節 種蒔く人のたとえ

読書好きの方は、岩波書店のマークを思い浮かべることでしょう。岩波書店のHPには「創業者岩波茂雄はミレーの種まきの絵をかりて岩波書店のマークとしました.茂雄は長野県諏訪の篤農家の出身で,「労働は神聖である」との考えを強く持ち,晴耕雨読の田園生活を好み,詩人ワーズワースの「低く暮し,高く思う」を社の精神としたいとの理念から選びました.」とあります。
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ルカの福音書22章35~38節 「二振りの剣 イエスは武力を肯定されるのか?」

本日のテキストは歴史的には「両剣論(theory of two swords)」と言われ、カトリック教会では教皇権と皇帝権をあらわす淵源として捉えれてきました。