説教

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使徒1章1~11節 セカイノオワリよりあなたに伝えたいこと

今日の箇所で、復活されたイエス様は、四十日にわたって弟子たちに現れ、神の国について語られました。弟子たちは、もう何度も失敗した人たちです。イエス様が捕らえられた時には逃げました。ペトロは三度、主を知らないと言いました。十字架の前では、ほとんど誰も立っていられませんでした。けれども、復活の主は、その弟子たちを見捨てませんでした。「あんたら、もうええわ」とは言われなかった。「こんな大事な時に逃げた者には任せられへん」とは言われなかった。復活の主は、傷を持ったまま、弟子たちに現れます。そして彼らに、もう一度語ります。神の国について語ります。これからあなたがたは、聖霊を受けるのだと語ります。
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出エジプト14章10~32節 年十二回で学ぶモーセ五書  モーセが海を割る有名なところ

今日、私たちは旧約聖書を月に一度たどりながら、創世記を除くモーセ五書を一年で俯瞰する旅を続けています。出エジプト記1章、2章では「創世記のその後」として、神の約束の民がエジプトで奴隷になっていた現実を見ました。3章では、燃える柴の前でモーセが召され、「わたしはある」という神の御名が示されました。12章では、過越の小羊の血によって、裁きの夜に救いが備えられたことを見ました。 そして今日はいよいよ出エジプト記14章です。副題に書きました。「モーセが海を裂くあの有名なところ!」です。旧約聖書をあまり知らない人でも、この場面だけは何となく知っているかもしれません。映画『十戒』でチャールトン・ヘストンが杖を上げると海がバーッと裂ける。アニメ『プリンス・オブ・エジプト』でも圧巻の場面です。日曜学校の紙芝居でも、子どもたちが「おおっ」となる場面です。 けれども、ここで最初に言っておきたいのです。これは「モーセすごい」の話ではありません。モーセが手品師のように海を割った話ではない。これは、追い詰められた民のために、神ご自身が救いの道を開かれた物語です。
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ヨハネ20章24~31節 遅れてやってきたイースター

イースターというのは、普通なら、みんなで一斉に「ハレルヤ」と言う日です。キリストが復活された、死に勝利された、希望が始まった、そういう喜びの日です。けれども実際には、イースターは、すべての人に同じ速さで来るとは限りません。ある人には朝早く来る。ある人には夕方に来る。ある人には一週間遅れて来る。今日の箇所は、まさにその話です。トマスにとってのイースターは、ほかの弟子たちより少し遅れてやってきました。ヨハネ20章は、主イエスが「週の初めの日」の夕方に弟子たちに現れ、その八日の後に、今度はトマスのいるところに再び現れられたことを記しています。この箇所を読むと、私たちはつい「疑い深いトマス」という見出しだけで読んでしまいがちです。もちろんトマスの不信仰は、この箇所の大きなテーマです。しかし今日は、もう一つ別のことを見たいのです。それは、弟子たちが共に居続けたということです。
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ルカ22章54~62節 ヨハネ21章15~19節 ギリシャ語に愛という言葉が3つある

サムネイルはヘラルト・セーヘルス作「ペテロの否認」ルカ22章54~62節 ヨハネ21章15~19節 ギリシャ語に愛という...
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第74回いずみ会 2025年クリスマスメッセージ ルカの福音書2章1~7節 イエス様が飼い葉桶で寝ているということ

日本バプテスト同盟の教会から生み出された、あびこひかりこども園と新生保育園。その職員の交流組織、いずみ会が12月6日夕方我孫子バプテスト教会で開催され、クリスマスメッセージをさせていただきました。以下にメッセージの要約を掲載いたします。
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創世記49章8~12節 年十二回で学ぶ創世記 ヤコブの預言 

創世記は「初めに」で始まる起源の書ですが、その最初からキリスト預言が散りばめられています。その流れのクライマックスが49章、ヤコブが12人の息子に祝福を告げる場面、とくにユダへの言葉です。本来長子ルベンに与えられるはずの主権が罪のゆえに退けられ、四男ユダに移されます。「ユダよ、あなたはほめたたえられる」「あなたの父の子らは、あなたの前にひれ伏す」と語られ、王家がユダから出ることが示されます。「ユダは若い獅子」という表現は、力ある王の象徴であり、やがて「ユダ族から出た獅子」と呼ばれるキリストを指し示します。
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詩編104編25~35節 収穫感謝礼拝 全てのものを養われる神様に感謝しよう

収穫感謝礼拝は、私たちの食卓に並ぶ米やパン、野菜や果物、肉や魚、そのすべての背後におられる主を覚える日です。詩編104編は、光、天、海、山、泉、草、家畜、人間、海の生き物に至るまで、天地万物を造り、今日も養っておられる神を賛美します。雨や太陽、土の力、成長の過程すべてを導いておられるのは主であり、私たち自身のいのちもまた、主の御手の中に保たれています。
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ルカの福音書 22章39~46節 神の正義と神の愛のパラドックス

本日の御言葉はルカ22章39〜46節、オリーブ山での主イエスの祈りです。ルカは他の福音書と違い、「ゲッセマネ」という地名を書かず、「オリーブ山」「いつもの場所」とだけ記します。それは、この祈りが一度きりの出来事で終わらず、すべての時代の弟子に共通する「信仰の戦い」「祈りの模範」として、私たち一人ひとりの歩みに重ねられるためだと言われています。
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創世記44~45章 年十二回で読む創世記 ヨセフ物語後編

創世記44~45章は、ヨセフ物語の頂点であり、神の救いの原型が輝く場面です。ここで中心に立つのは、意外にも兄ユダです。かつてヨセフを銀二十枚で売り飛ばすことを提案した彼が、今度は弟ベニヤミンのために自分の身を犠牲にしようとします。ヨセフが仕掛けた試みの中で、銀の杯がベニヤミンの袋から見つかり、彼が奴隷にされようとしたとき、ユダは一歩前に出て訴えます。「どうか、このしもべを少年の代わりに奴隷として残し、少年を父のもとに帰らせてください」(創44:33)。これは、自己中心な男が他者のために命を差し出そうとする決定的な変化でした。神がその心を砕き、悔い改めの器へと造り変えられたのです。ユダのこの姿は、やがて十字架にかかられるイエス・キリストの予型です。主もまた、罪人の代わりに自らをささげられました。
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ヨハネ14章1~3節 父の家でまた会いましょう

今日は昇天者記念礼拝です。私たちは愛する人を思い起こし、悲しみと感謝の中で神の前に立ちます。別れはいつも胸に痛みを残しますが、イエス・キリストは弟子たちにこう語られました。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。わたしの父の家には住まいがたくさんあります。」――これは、「別れは終わりではない」という慰めの約束です。