説教

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使徒4章1~22節 どの道も登れば同じ富士の山というけれど

宗教は、富士山に登る道のようなもの。道は違っても頂上は同じ」と言われることがあります。しかし富士山の登山道が同じ頂上に着くのは、初めから同じ山の斜面にあるからです。諸宗教は、神、人間の問題、死、救いについて、実際には異なることを語っています。それらを全部同じだと言うのは、かえってそれぞれの信仰をまともに聞かないことにもなります。使徒言行録4章で、ペトロとヨハネは、生まれながら足の不自由な人が癒やされた出来事をきっかけに、最高法院で取り調べを受けます。以前は女中の言葉を恐れてイエスを三度否んだペトロが、今は聖霊に満たされ、「ほかのだれによっても、救いは得られません」と大胆に語ります。この大胆さは、性格の強さではなく、失敗した自分が復活の主に赦され、立ち上がらせていただいた恵みから生まれました。イエス・キリストだけが救い主であるのは、クリスチャンが他の人より優れているからではありません。私たちの罪を負って十字架に死に、死に勝利して復活された方が、イエス・キリストのほかにおられないからです。「キリストだけ」という告白は、他者を見下す根拠ではなく、自分では救えなかった者の感謝とへりくだりの告白です。私たちは異なる信仰の人々の人格と信教の自由を尊重し、良い隣人として共に生きます。同時に、批判を恐れて福音の核心を薄めることもできません。福音は、人間がさまざまな道から神のもとへ登って行く話ではありません。登れず、迷い、倒れた私たちのところへ、神の御子が降りて来てくださった知らせです。イエス・キリストは人生を少し便利にする選択肢の一つではなく、罪と死から救う代わりのない救い主です。だから私たちは、誰をも侮辱せず、しかし恐れずに、「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられない」と告白します。
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使徒 3章全節 お金より大切なもの見つけた

生まれつき足の不自由だった一人の人が、主イエスの御名によって立ち上がる出来事が記されています。この人は毎日、「美しい門」と呼ばれる神殿の門のそばに置かれ、施しを求めていました。「美しい門」が正確にどの門であったかは断定できませんが、神殿の礼拝空間へ向かう大切な境界にあった門でした。彼は礼拝へ向かう人々を見ながら、自分は門のそばに置かれ、今日を生きるための施しを求めていたのです。
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出エジプト記16章 森永のお菓子マンナを神学してみた。年十二回で学ぶモーセ五書 不思議な食べ物マナによる訓練

森永のお菓子「マンナ」は、出エジプト記の「マナ」に由来します。荒野を旅するイスラエルの民に、神が天から与えられた不思議な食べ物です。今日は出エジプト記16章全体を通して、マナが単なる奇跡の食物ではなく、救われた民を訓練する神の恵みであったことを学びます。
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使徒2章41~47節 中国天津に天津飯は存在しない

「天津飯」という料理があります。ところが、この天津飯、名前からするといかにも中国の天津市の名物料理のようですが、実際には中国天津の伝統料理ではありません。日本で生まれた、日本式中華料理です。つまり、私たちは「これは中華料理だ」と思って食べている。しかし、本場の中国の人から見ると、「え、それ何ですか?」となるかもしれない。もちろん、天津飯が悪いわけではありません。おいしい。立派な日本の食文化です。しかし問題は、「これは本場そのものだ」と思い込むことです。今日の問いはそこです。私たちのキリスト教は、天津飯になっていないでしょうか。
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使徒 2章22~42節 十字架につけられた人が救い主?!

皆さん、「救い主」と聞いて、どんな人を思い浮かべるでしょうか。強い人。負けない人。悪を倒す人。最後には大逆転する人。映画でも漫画でも、ヒーローというのはだいたいそうです。倒れそうになっても、最後は立ち上がる。敵を打ち破る。拍手喝采を浴びる。ところが、聖書が語る救い主はどうでしょうか。十字架につけられた人です。これは当時の人々にとって、信じがたいことでした。十字架刑は、ただ死ぬ刑罰ではありません。ローマ帝国が見せしめとして行う、最も恥ずべき処刑でした。「この者は負けた」「この者に従う者も同じ目に遭うぞ」と世にさらす刑罰です。ですから、「十字架につけられた人が救い主です」と言うのは、普通に考えれば無茶な話です。今日の説教題の通りです。
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マルコ5章1~20節 墓場から家へ、社会を変える福音

今朝、私たちに与えられている御言葉は、少し不思議で、少し怖くて、しかし最後には深い慰めに満ちた物語です。ゲラサ人の地方で、悪霊に取りつかれていた一人の人が、主イエスによって救われる物語です。この人は、墓場に住んでいました。家ではありません。町でもありません。人の生活の場ではなく、死者のいる場所です。しかも、彼は鎖でつながれていました。足枷もはめられていました。しかし、彼はその鎖を引きちぎり、足枷を砕いてしまう。人々は彼を恐れました。家族も、近所の人も、村の人も、どうしてよいか分からない。どうにもできない。だから、彼を墓場に追いやったのです。これは、ただ「昔は精神病の理解がなかった」という話だけではありません。もちろん、現代の私たちは、病を悪霊と短絡的に結びつけてはいけません。心の病、発達の課題、依存症、孤独、トラウマ、そういうものに苦しむ人を、「信仰が足りないからだ」「悪霊のせいだ」と決めつけることは、福音ではなく暴力です。
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使徒2章1~13節 ペンテコステー教会の誕生日

今日はペンテコステです。よく「教会の誕生日」と言われます。誕生日というと、ケーキがあって、ろうそくがあって、プレゼントがあって、「ハッピーバースデー」と歌います。けれども教会の誕生日は、少し不思議です。ろうそくを吹き消すのではなく、炎のような舌が一人ひとりの上にとどまりました。プレゼントをもらうのではなく、聖霊という神からの賜物が与えられました。そして「おめでとう、教会」と祝うだけでなく、「さあ、出て行って福音を語りなさい」と送り出される日でした。
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文字のない本が語る福音

文字のない本は、難しい本ではありません。しかし、福音の道筋をはっきり語っています。黒。私たちは罪人です。赤。キリストが十字架で死んでくださいました。白。信じる者は赦され、きよめられます。青。救われた者は洗礼によって信仰を告白します。緑。神の恵みの中で成長していきます。金。やがて神の御国で、主と共に生きます。
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ルカ16章11~32節 父の家に入らない兄息子

今日、私たちに与えられている御言葉は、いわゆる「放蕩息子のたとえ」です。教会に長く通っている方なら、何度も聞いたことがあるかもしれません。教会学校でもよく語られる箇所です。ある人は、この物語を「聖書の中の真珠」と呼びました。それほど美しく、それほど深く、それほど福音そのものを語っている箇所です。しかし、このたとえを何度も聞いていると、私たちはつい思ってしまいます。「ああ、あの話ね。財産をもらって家を出た息子が、失敗して帰ってくる話でしょう。そして父が赦してくれる話でしょう」と。もちろん、その通りです。けれども、この話はそれだけではありません。実は、この物語の最後で、家の外にいるのは、放蕩した弟ではありません。家の外に立っているのは、まじめで、正しくて、ずっと父の家にいたはずの兄なのです。今日は、この有名な「放蕩息子」のたとえを、特に「兄息子」にも目を向けながら聞いていきたいと思います。
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ルカ22章54~62節 ヨハネ21章15~19節 ギリシャ語に愛という言葉が3つある

サムネイルはヘラルト・セーヘルス作「ペテロの否認」ルカ22章54~62節 ヨハネ21章15~19節 ギリシャ語に愛という...