マルコによる福音書 第15章16~32節「十字架を負って」

生まれつきの私たちは、自分が強い者、立派な者になろうとします。それによって自分の人生を切り開き、願いを叶え、充実した人生にしようとします。その思いによって私たちは、自分を救い、また、人をも救うことのできる強い救い主を待ち望んでしまいます。しかし、神が私たちに与えて下さる救いは、強い者、立派な者となる力を与えることではなく、むしろ、どうしようもなく弱い者であり、立派になり得ない罪人である自分を必死に取り繕い、表面を飾って生きている、その弱い罪人である本当の自分が、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死とによって救われ、赦され、支えられている、それこそが神の与えて下さる救い主なのです。その救いを私たちに与えるために、神の独り子である主イエスが人となってこの世に来て下さり、十字架の極限の苦しみと死とを引き受けて下さったのです。その救いにあずかって生きる時に私たちは、自分が強い者、立派な者、自分をも人をも救う力のある者にする自分の思い描く救い主に頼ることを止めて、主イエス様が私たちのために背負って下さった十字架の苦しみを思いつつ、救い主なるイエス様に従って生きるのです。

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