ルターはある嵐の日に雷に驚き「聖アンナ様、お救いください。残りの生涯は聖職者として一生ささげますから」とお祈りしてしまいました。生真面目な彼は出家しないと罰が当たると考え、修道院に入ります。しかし、どれほど信心しても「救われた」という実感がありませんでした。ローマ書1章17節には「義人は信仰によって生きる」「福音のうちに神の義が啓示されている」という一節を見出し、福音(書)にあるイエス様の教えを守れば、救いの基準に到達できると考えました。ところがマタイの福音書にある山上の垂訓を読めば、とても人間では達成不可能な、高い倫理基準が示されていることに愕然とします。長らく彼は苦しむのですが「達成しえない基準だからこそイエス・キリストがこの地上に降りてきて人の代わりにその高い倫理基準を達成してくれたのではないか?だからこそ、人は努力してその倫理基準に到達しようとするのではなくて、身代わりに達成してくださったキリストをただ信じて、キリストに対してただ感謝すればよいと聖書は教えているのではないか」ということに気づいたのです。人間の努力ではなくてキリストへの信仰によって義と認められるその体験は新約聖書でパウロもしています。500年前に信仰義認という教理を再発見したルターと、救いを成就したイエス様に思いを馳せたいです。
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