Ⅰコリント6章12~20節「キリスト教と被害者なき犯罪」

説教

Ⅰコリント6章12~20節「キリスト教と被害者なき犯罪」

キリスト教の説教は2000年前に書かれた書物のことをかたる、埃のかぶった話と誤解される方もいるやもしれません。しかし、極めてリアルで現代的なことを語るのです。例えば、説教題にあげた、「被害者なき犯罪」とは、国家が刑罰や行政罰を科す犯罪のうち、目に見えて分かる被害者が存在せず、したがって、「犯人」も加害者ではないのに罰せられる犯罪のことを指します。国によって差異はありますが、たとえば違法薬物の所持や使用、ヘルメットやシートベルトの未着用、賭博や売買春などが該当します。一見すると被害者が存在しないにもかかわらず、なぜこれらの罪状によって罰せられるのでしょうか?しかし、そのような疑問が生じるのは、私たちは「自分の体は自分の所有物で、自己決定権の範囲内にある」という前提に立つから、前述の疑問がわくわけです。本日の聖書テキストの中でパウロは「あたなたがたの体はあなたがた自身のものではない」とこの前提に真っ向から「否」を唱えます。そう、私たちの体は神様から預かったもので、地上での数十年の人生を生きる間いわば「指定管理者」として体の適切な管理を委託されたものという視点を持った時、新たな世界観が開けてきます。
このパウロの「否」は被害者なき犯罪に留まらず、臓器移植などの生命倫理などにも関連してきます。繰り返しになりますが、聖書の話は、昔話ではなく、極めて現代に関連した話なのです。そして、聖書は皆さんを拘束しませんが、クリスチャンである皆さんには是非ともキリスト教的価値観を視座に入れたうえで物事を判断していただきたいのです。
例えば考えてみてください。煙草に関する倫理がわずか30年ほどで180度反転してしまったように、性倫理に関しても、わずか数十年、あるいは自分の回りのわずか数十人の価値観に流されて「進んでいる」「遅れている」「変わっている」と軽々に判断するのではなく、有史以来人類に普遍的な価値観を提供してきた聖書から、誤まりなき選択をしていただきたいですし、キリスト教倫理を精神世界にのみ押し込めることなく、キリスト者のからだは代価を代価を払って買い取られたという聖句(Ⅰコリ6:20)を厳粛に受け止めていただきたいのです。

サムネイルはミケランジェロ・カラバジョ作『ホロフェルネスの首を斬るユディト』聖書外典に出てきて絵画のモチーフにされる有名な女性です。犯罪、魔性の女性、性の誘惑に負けて命を失う、信仰をもって立ち向かう、倫理などのイメージに基づいて選びました。説教内容とは直接関係ありません。

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