マタイ21:1~11「子ロバに乗った主イエス」

説教

マタイ21:1~11「子ロバに乗った主イエス」

イースターまでの3週間は主の受難と復活を共に覚えたいと思います。今日のテキストは十字架にかかる5日前の出来事です。主イエスはロバを所望されてそれが、不思議な形でイエス様はロバに乗って、エルサレムの入城を果します。それはゼカリヤ書9章に書かれていた預言の成就でした。マタイは21:5でゼカリヤ書を引用していますが、彼はヘブル語聖書からではなく翻訳されたギリシャ語七十人訳聖書から引用します。救世主の姿を七十人訳は「柔和な方」といい、日本語訳でも「高ぶることな」い方と著しますが、NIVは正しく「lowly」と訳しています。そう、卑しくみすぼらしいとゼカリヤ書にははっきりとかいているのですが、さすがにギリシャの七十人訳聖書の翻訳者は救い主が「卑しく」「みすぼらしい」のでは、自身が信じる救世主像とかけ離れているため、カッコがつかないと考え、可能な範囲で意訳したのでしょう。良かれと思っての好意的な意訳だったのかもしれませんが、それは結果として、余計なことでした。十字架にかかってみじめな死を遂げるという本当の主イエスの姿を使命を分かってない故でありましょう。マタイはあえてその七十人訳聖書の訳文をそのまま引用しました。
主イエスは大衆のホサナ、ホサナと熱烈なシュプレヒコールの中エルサレムに向か入れられます。この言葉は今日の交読詩編118編の言葉です。ホサナとは、もともと主よ助けてくださいの意味ですが、転じて、神様への礼賛を表す言葉になりました。日本語の万歳に近いでしょうか、助けてもらうより仕方がないことをお手上げだ「万歳するより仕方がない」といい、また、国王陛下万歳、天皇陛下万歳など、礼賛の対象への賛辞の言葉にもなっています。つまり、イエス様万歳、イエス様万歳という大観衆の元迎え入れられるのです。しかし、これもまたむなしいことです。この大衆は5日後、同じ人物に対して「イエスを十字架につけろ」というのですから…大衆もまた表向き、イエスを礼賛するのですが、その救い主像は軍事的に、政治的にローマの圧政を解放してくれる王の待望であって、十字架にかかって全人類を罪から解放するというイエス様の目的とかけ離れていたのです。イエス様の周りにはイエス様を礼賛する人がいっぱいいました。しかし、イエス様のことをわかっているものはこの時大衆も、弟子たちも、ゼカリヤ書の翻訳者さえも誰もわかっていなかったのです。

そして、イエス様周りがわかっていないことを承知の上で、そのずれた賛辞が自身におくられることをあえて受け入れられました。、弟子たちもこの時点はイエス様の本当の目的をりかいしていませんでした。実にゼカリヤ書の翻訳者ですら、みすぼらしいイエス様の姿をうけいれられずに歪めていました。

実はこれもイエス様の受けられた苦しみの一つなのです。「他人に自分のことをわかってもらえず孤独を耐えなければならない苦しみ」この苦しみを、イエス様は世界で一番経験されました。これは、誰にもわかってもらえず孤独や虚しさを感じるあなた、あたなの苦しみを担うためでした。そうです。イエスさまは、あなたの「わかってもらえない」という苦しみを「わかってくださる」のです。キリストの受難を覚えるこの時期にその受難は私たちの為であったといいうこと今一度心に留めたいと思います。

 

サムネイルはシャルル・ル・ブラン作「キリストのエルサレム入城」です

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