イザヤ43章1~7節「新しいことをなさる主」

説教

この聖書個所、この説教題をもって、10日前、本年のバプテスト同盟の総会がありました。ですから、同じ説教題、同じ聖書個所をもって、日本中にある姉妹教会、協力団体との連帯を表したいと願います。また、この総会の会期中にまさに、元首相暗殺事件がおこり、世の中は今、その容疑者の背景にある宗教団体との関係についてのニュースで持ちきりです。

総会の礼拝の中ではコロナ禍で宣教が困難な中でZOOMを用いての初の理事選を伴う総会であり、困難がありましたが、そのような中でも神様が新しいことをなさることを期待して歩んでいこうという主旨のことが語られました。

4節の「わたしの目にはあなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している(新改訳)」はキリスト教の伝道用冊子でよく多用されている聖句でもあります。あなたも愛されているというメッセージとともに。2節をみると、あなたがたとえ、火の中、水の中どのような状況にいようと愛されるといい、5節、6節をみれば、あなたが東西南北どこにいようが救われると語ります。また、この預言はバビロン捕囚前にバビロン捕囚、民族離散を経験する民が再びイスラエルに集められることを預言したものであり、時空を超えてあなたを救い出すといっています。そうです。神様はいつでも、どこでも、どのような状況でも救い出すとおっしゃっているのです。しかし、それは「誰でも」救うとは語っていないのです(1節、3節)。1節にはこの語りかけられる「あなた」は「ヤコブ」「イスラエル」であることがわかります。(イスラエルやヤコブが神様から与えられた名前で、ヤコブはイスラエル12部族の祖とされる人物)

また、3節ではイスラエルが救い出されるためには、エジプトやクシュ、セバなどを身代わりに差し出すといっています。差し出される方はたまったものではないと考えられるかもしれませんし、神様が博愛精神を示されないことに心のモヤモヤを私自身も感じるのですが、ここでは、みんなが救われたらいいと思います。という、通り一辺倒の綺麗ごとがのべられているわけではありません。

一例をあげるなら、何かしらの事件事故で我が子を含め、子どもたちが数十名危険にさらされたとしましょうか、その時、その子供の親にマスコミがマイクを向けられたなら「全員無事で帰ってくることを願います」と誰しも表向きは穏当なことを語るでしょう。しかし、本心を言うならば、どの親でも、他の人が犠牲になっても、どうか我が子だけは無事で帰ってきて欲しい…それが偽らざる本心ではないでしょうか?

また、別にたとえるなら、よその子が「あなたの家の子より、良い子にします。いうこと聞きます。勉強します。だから、あなたの子より私を愛してください」といってもできないし、逆に、「よその子より、いたずらずきで、言うこともきかず、勉強をしなくとも…我が子であるというその一事をもって、その子は親に愛されるのではないでしょうか?ずるいように思われるかもしれませんが、それが親子の関係性です。イザヤはその関係性を「バーラー」「神よって創造された」という言葉でもって表しています。「神様」と「神様を礼拝する民」イスラエルの関係性を薄っぺらいまんべんなく愛する博愛精神ではなくて、濃厚で、濃密で、特別で限定された関係、特別に贔屓に愛される関係性であることを預言者イザヤは同章で表現しています。

そしてそれは、新約聖書の時代、現代においてはキリストを信じた者が将に「神様を礼拝する民」として神に創造された者、バーラーされたものであり、クリスチャン「神様を礼拝する民」が救いだされるために提供された身代わりは神の独り子、イエス・キリストご自身であり、父なる神様ご自身が代償を用意してくださいました。

隣人にキリスト教のことを伝えたい皆さんが統一教会も「キリスト教系」とされて、白眼視され、困っておられる方のために、もう少し突っ込んだことをいえば、昨今、キリスト教系の異端・カルトは神・キリストと私たちとの関係性そのものをすり替えてしまうという全く異質なものがあるゆえに異端なのです。

現在も教会の伝道用冊子の多くには

「当教会と統一教会、モルモン教、エホバの証人とは一切関係ありません。これらの団体でお悩みの方はご相談ください。」

との一文があります。ただ、私たちの教会を含めて、時代の潮流もあり、中世の異端審問の悪いイメージもあり、あまり、他団体を「異端だ、異端だ」といって非難することもしてきませんでした。また、そんなことをしても、クリスチャンではない人からみれば、コップの中の嵐にしか見えないでしょうし、いわゆる正統とされているキリスト教の教派間での違いはあるわけで、その正当な教派間の違いと、上記のような異端とされる団体との違いは、なんなんだといわれることもあるでしょうから日本の歴史的、正統的なキリスト教会の多くは、ここニ~三十年、あえてその違いを鮮明にすることはしないできました。

しかし、そのツケが回ってきました。自戒をこめて大いに反省すべきでしょう。わが国には憲法で保障された信教の自由がありますから、行政官庁もマスコミも、異端やカルトの教義上の問題まで触れることができません。いわゆる「キリスト教系」とされる異端やカルトの教義上の問題に触れ、社会に注意喚起を促すことができるのは、キリスト教会しかないのです。

綿密に世界中のすべての国を調べた分けではありませんが、世界広しといえど我が国だけでしょう。カトリック、プロテスタント、東方正教会という歴史的、正統的といわれる教会の信徒数の合計※1よりも、統一教会、モルモン教、エホバの証人といった、一般にカルト、異端と呼ばれる新興キリスト教系団体※2の合計が多いのです。

(文化庁がだしている、宗教年鑑 宗教統計調査によれば、いわゆるキリスト教系の信者の合計が200万人となっていますが、正統的な教会がだしている、※1の合計は100万人足らずですから、実に半分以上は歴史的には正統的キリスト教とカウントされない、自称キリスト教系宗教の信徒であることになります。)

歴史的、正統的とされる教会のクリスチャンは基本的に、同じ聖書、同じイエス・キリストに信頼を置きます。教派の違いは同じ聖書の解釈の違いであり、同じイエス・キリストの強調点の違いといえます。しかし、異端は例えば今話題になっている旧統一教会(現 世界平和統一家庭連合)であれば、教祖(文鮮明)が「私がキリストの生まれ変わりだ」といって、違うキリストを提示します。そして、「これが聖書だ」といって、教典である聖書を自分で書いて作ってしまう(統一教会の場合は原理講論)のです。

通常、聖書に信頼を置き、キリストに信頼を置くのであれば、歴史的にもっとも多くの人が信じてきた宗教ですから、もっとも安全性・信頼性が高いといえるのですが、上記の異端とされる団体は、その聖書の信頼性、イエス・キリストへの信頼性を偽物、別物へと、すり替えてしまう、成りすましてしまうのです。

 

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