マタイ2章10~23節「人生の『リスケ』してみませんか?」
暦と宗教というのは密接に関わっています。西暦からして「キリスト紀元」でありますし、本日の招きのことばもユダヤ教最大の祭事である過越しの祭りに際しての神勅です。日本の祝日の多くも憲法との関連で宗教色を廃除していますが多くは神道由来です。文化の日→明治節、春分の日→春季例大祭、勤労感謝の日→新嘗祭。等々。 本日説教題に冠した「リスケジュール(reschedule)」は和製英語で、一般的には日程の再調整やスケジュールの組み直しといった意味を持ちます。 ビジネスシーンでは略して「リスケ」と言って使用されることが多い言葉です。 クリスマスが過ぎ、新しい年を迎え、暦も改まったところで私たちも今一度、人生設計を自分本位なものから神様の喜ばれるものへと、あるいは天寿を全うするか、再臨を迎えるかで必ず迎える「神様にあいまみえる日」を基準として人生の「リスケ」してはいかがでしょうか? さて、ヨセフとマリアとイエス様の聖家族は、クリスマスのあとすぐさま、生命の危機に瀕しリスケを迫られました。十字架による救いの成就まではイエス様は死ぬわけにはいかなかったのです。また、クリスマスではほとんど触れられることがありませんがヘロデ大王による嬰児虐殺の凶行について聖書は淡々と触れています。神様中心にリスケすれば全て順風満帆、みんなハッピー…とはいかない、人の罪深さ、耳障りの良い言葉では決して済ますことのできない現実、慰めの言葉すらかけられない苦難の中にいる人がいることと、しかしそれでもそれすら神様の配剤の中にあることを聖書は語ります。最後にイエス様が「ナザレ人と呼ばれる」(2:23)というのも聖書の預言だとマタイはいいますが、それそのままの言葉は聖書にありません。この箇所は長らく色々な解釈が教会でなされてきましたが、一つの有力な解釈を紹介します。士師記の13章に「ナジル人と呼ばれる」という言葉があります。マタイがその聖句を念頭に「ナジル人」と「ナザレ人」で韻を踏んだのではというのです。神様中心に人生をリスケすることはまさに「ナジル人(献身者)」でありますが、信仰者でない人からみれば馬鹿げた生き方なのです。「ナザレ人」はまさにイエス様に対する蔑称でありました。神様中心の生き方にリスケする際、その生き方をなじる人は必ずいますが、福音を恥としない生き方をリスケし、新年の抱負として頂ければ幸いです。
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