ルカの福音書5章1~11 「釈迦に説法、イエスに漁法」

説教

ルカの福音書5章1~11 「釈迦に説法、イエスに漁法」

イエス様がシモン・ペテロたち漁師出身の人を弟子とする場面です。今日、説教題にした釈迦に説法とは知り尽くしている人にそのことを解く愚かさを表す慣用句です。仏教の開祖である釈迦に仏法をとくことはおこがましいのと同様に神の子イエスに漁法を解くのもまた愚かなことであることから、このような説教題にしました。しかし、本当におこがましいことでしょうか?ガリラヤ湖(ゲネサレ湖)での漁は通常夜に行われるものであり、漁火を使って湖面に上がってきた魚を投網をつかって文字通り一網打尽にするものでした。水温や季節、天候によって、いつ頃、どこで、どのように網を投げれば魚をとれるかということはペテロ達漁師にとってはそれを生業にしているのですから、最も得意とすることでした。それでも不漁のときがあり、明るくなってから岸辺で網を洗う時もままあったのです。他の事ならいざしらず、漁法について大工の息子であるイエス様にとやかく言われるというのは、漁師であるペテロたちにとってはプライドを傷つけられることでした。人知の及ばぬ「神のみぞ知る」出来事だけを神頼みするのではなく、自身がもっとも得意としていることすら、神より詳しいということはなく、神の範疇にあるということを私たちは認めなければなりません。

また、旧約聖書の文脈で言えば、「りょうし」「漁夫」「漁る(すなどる)者」の譬えは、特に「漁夫が人間を 漁る(すなどる)」という比喩は旧約聖書の中の預言書に 5か所出てきます。エレミヤ書(16:16)、エゼキエル書(29:4,5、38:4)、アモス書(4:2)に、ハバクク書(1:14-17)の計5回です。しかも奇妙なことに、どれもあまり良い意味ではなく、というのは救いとか喜びとは反対に、神の裁き、迫りくる審判と滅亡ということと結びついて語られているのです。

イエス様はペテロ達を人をすなどる漁師にして私たちを救いたいのでしょうか?裁きたいのでしょうか?

同様の思想はヨハネの福音書3章16~18節や12章の終わりでもみられます。イエス様は「裁かない」と宣言されながら、裁きについて明確に宣言されるのです。

たとえていうなら、ラッシュ時の電車は次の電車が来るので乗客がほんの数十秒おくれても無視して冷徹に発車します。バスなんかはもっとひどくて、信号の兼ね合いもあるのでしょうが、運航表にかかれている発車時刻よりも早く出発する時があります。

しかし、終電はどうでしょうか?何度も構内でアナウンスが流れ、発車時刻に余裕があり、絶対に乗り遅れないような配慮な何重にもされています。「だからこそ」、「にもかかわらず」、乗り遅れた人は、乗れなかった人ではなくて、乗らなかった人であると言えるのではないでしょうか。

 

救いが広く寛大であるほどに、裁きもまたコントラストをまして描かれているのです。

サムネイルはペテロ召命教会の写真です。撮影は筆者

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