創世記44~45章 年十二回で読む創世記 ヨセフ物語後編

説教

年十二回で読む創世記 ヨセフ物語後編

創世記44~45章は、ヨセフ物語の頂点であり、神の救いの原型が輝く場面です。ここで中心に立つのは、意外にも兄ユダです。かつてヨセフを銀二十枚で売り飛ばすことを提案した彼が、今度は弟ベニヤミンのために自分の身を犠牲にしようとします。ヨセフが仕掛けた試みの中で、銀の杯がベニヤミンの袋から見つかり、彼が奴隷にされようとしたとき、ユダは一歩前に出て訴えます。「どうか、このしもべを少年の代わりに奴隷として残し、少年を父のもとに帰らせてください」(創44:33)。これは、自己中心な男が他者のために命を差し出そうとする決定的な変化でした。神がその心を砕き、悔い改めの器へと造り変えられたのです。ユダのこの姿は、やがて十字架にかかられるイエス・キリストの予型です。主もまた、罪人の代わりに自らをささげられました。(招詞 マルコ10:45)。

ユダが「弟を救うために自分を差し出す」姿の中に、「罪人を救うためにご自身を捧げる」キリストの愛が映し出されています。罪を犯した者が、贖いの型とされる――それが神の恵みの深さです。

ユダの犠牲の申し出を聞いたとき、ヨセフは涙を抑えきれず、自らの正体を明かしました。「私はあなたがたの兄ヨセフです」。この瞬間、長い憎しみと罪が赦しに変わります。「あなたがたは悪を図ったが、神はそれを善に変えられた」(創50:20)。

赦しは犠牲の上に成り立つのです。ユダの自己犠牲が、和解の扉を開きました。

そしてこのユダこそ、のちに王なるメシアの系譜の祖となります。「王杖はユダを離れず」(創49:10)とあるように、彼の子孫から救い主イエスが生まれました。神は、過去に罪を犯した者をも恵みの器に変え、救いの系譜に組み込まれます。私たちもまた、ユダのように変えられ、他者のために生きる者へと招かれています。   キリストの十字架はこう語ります――「わたしが代わりに」。

この言葉にこそ、救いの本質があります。罪の歴史の中に、神の愛が輝いているのです。

※サムネイルはヤン・ファン・カッセルの作品『エジプトで穀物を売るヨセフ』

 

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