キリスト者は共産主義あるいは共産党を支持してよいのか?組織神学的考察 カール・バルトの言説から紐解いて
1. はじめに
現代に生きるキリスト者が政治的立場を考えるとき、信仰と政治が全く別の問題であるとは言い切れません。信仰は人の価値観、人生観、倫理観に深く浸透し、政治的判断にも大きく影響を与えるものです。したがって、クリスチャンが特定の政治思想や政党を支持することについて考えることは、決して無意味でも場違いでもありません。
では、キリスト者は共産主義あるいは共産党を支持してよいのかという問いはどうでしょうか。この問いは単なる政治的選択を超えて、「世界観と宗教観の衝突」という深い問題を含んでいます。
この論考では、まず「別次元なら両立するが、同一次元では両立し得ない」という思考構造を示すため、身近な例として野球ファンと政治立場の比較から話を始めます。次にその構造を宗教に適用し、最後に、キリスト教と共産主義が本質的に衝突する理由を、20世紀最大のプロテスタント神学者カール・バルトの言説を手がかりに考察いたします。
2. 別次元なら両立するが、同じ次元では矛盾するもの
2-1. 異なる次元なら両立できる例
公開情報として、高市早苗首相、小池百合子都知事、福島瑞穂社民党党首が共通して阪神タイガースのファンであるという話があります。政治信条ではまったく一致しない三者が、野球という次元においては完全に一致するという、ある意味で象徴的な例です。現実にも、自民党支持者で熱狂的なタイガースファンという人は多いでしょうし、社民党支持者でタイガースファンという人も当然います。これは「政治」と「野球」という次元が異なるために矛盾しないのです。
2-2. 同じ次元だと矛盾が生じる例
しかし、「タイガースファンでありながら同時にジャイアンツファンでもある」というのはどうでしょうか。特にどちらも“熱狂的ファン”であれば、これはほぼ不可能です。同一リーグ、同一の競争構造の中で直接勝敗を争う立場であり、“どちらも全力で応援する”という事態は、論理的にも心理的にも成立しにくいからです。
政治の世界でも同様で、自民党員でありながら社民党員でもあるという二重党籍は制度的にも思想的にも不可能です。同じ次元の中では両立しません。
2-3. 宗教の次元では排他性がさらに強く働く
これと同じ構造を宗教に当てはめると、
クリスチャンでありながら創価学会員
クリスチャンでありながらイスラーム信徒
というのは明らかに矛盾します。宗教は“世界観の全体構造”を規定するため、二つの宗教を同時に信仰することは論理的にも実践的にも成り立ちません。
このように「別次元なら両立するが、同次元では両立しない」という構造を理解することが、キリスト教と共産主義の問題を考えるための土台となります。
3. 本題への導入:クリスチャンは共産主義を支持できるのか
一見すると、キリスト教は宗教であり、共産主義は政治思想であるため、両者は「次元が違う」ように見え、両立可能ではないかと思われるかもしれません。
しかしここで注意すべきことがあります。共産主義は単なる政治思想ではなく、宗教的構造を持つ“神なき宗教”であるという事実です。
この点を最も鋭く見抜いたのが、20世紀最大の神学者とされるカール・バルトです。
4. カール・バルトの共産主義理解
4-1. バルトは共産主義を「地上的メシア主義」と呼んだ
バルトがその著書『教会教義学』の中で共産主義を「地上的メシア主義」と呼びました。
その中でバルトは、共産主義を次のように説明します。
「共産主義とは、人間が歴史の完成を自らの革命によって実現しようとする“地上的メシア主義”である」
(要旨)
すなわち、共産主義は
“地上における救済の完成”を約束し
その主体を神ではなく“人間”に置き
歴史を自らの手で最終段階まで導こうとする
という意味で、宗教的構造を持つということです。
4-2. バルトは共産主義を「神なき宗教」と呼んだ
バルトが同じく教会教義学の中で共産主義を「神なき宗教」とも明言しています。
そこにこうあります。
「共産主義は、宗教の形式を持ちながら神を欠いている“神なき宗教”である」
(要旨)
バルトは、共産主義が“反宗教”を標榜しているにもかかわらず、実際には宗教的要素——預言者、教義、共同体、救済論、終末論——を持っていることを強調します。そして、最も危険なのは、それが“神なしで救済を実現できる”と言い張る宗教であるという点です。
5. なぜ共産主義は「宗教」なのか
バルトの洞察を踏まえながら、共産主義の宗教的構造を整理します。
5-1. 共産主義は「救済論」を持つ
宗教とは、広義には「世界と人間の究極的問題に対する答え」を提供するものです。
共産主義は、階級闘争、生産関係の変革、国家の死滅、搾取なき社会といった形で、“究極的な社会の完成”を約束します。これは明らかに“救済”の形を取っています。
5-2. 共産主義の構造は宗教と驚くほど似ている
| キリスト教 | 共産主義 |
| 贖罪と救い | 革命と解放 |
| キリスト | 革命主体(労働者階級) |
| 聖書 | 『資本論』 |
| 教会 | 共産党 |
| 洗礼 | 入党・革命参加 |
| 終末論 | 階級なき社会の到来 |
| 伝道 | 革命の拡大 |
バルトが指摘するように、構造としては宗教と見なすべきです。
5-3. しかし「神」がいない
バルトによると、共産主義の宗教性の核心はここにあります。
「神を取り除いた上で、宗教の構造をそのまま残したもの」
これをバルトはreligion without God(神なき宗教)と呼んだのです。
6. 共産主義は「自己救済の宗教」である
キリスト教と共産主義の最も大きな違いは、救いの主体が誰かという問題です。
キリスト教
救いの主体は神
神の国は“上から”来る
人間は罪の下にあり、自己救済は不可能
共産主義
救いの主体は人間
神の国を地上に実現できると主張
人間は本来善で、悪は社会制度がつくるとする
つまり共産主義は、「キリストの座に人間を置く」宗教なのです。バルトは、これを最も危険な形の偶像崇拝と呼び、以下のように述べます。
「人間を救い主にする思想は、形を変えた偶像崇拝である」
7. 歴史が証明した「地上的メシア主義」の危険性
共産主義が国家権力を握った国々では、ソ連のスターリン体制、中国文化大革命、カンボジアのポル・ポト政権、東ドイツ、ハンガリーでの教会迫害、など、膨大な人権侵害が起きました。これらの体制は、「人間による歴史の完成」を信じるメシア主義が国家イデオロギーとなり、党の指導者が事実上“神の位置”に置かれた結果です。バルトはこれを予見し、以下のように警告しました。
「地上的メシア主義は、必ず暴政へと変質する」
なぜなら、神の代わりに人間が“歴史を裁く立場”に立つからです。
8. キリスト教と共産主義は「同次元の競合関係」にある
以上の理由から、キリスト教と共産主義は、単なる政治的立場の違いではなく、
同じ宗教的次元における競合関係にあることがわかります。
| キリスト教 | 共産主義 |
| 神が救う | 人間(革命)が救う |
| 神の国の到来 | 階級無き社会の到来 |
| 神への忠誠 | 党への忠誠 |
中心に置いている“究極的価値”が完全に異なるため、両者を同時に真剣に信じることは不可能です。
9. 日本でこの問題が誤解されやすい理由
日本の教会では、戦後長らく、右傾化、国家主義、保守反動への警戒が中心で、共産主義の宗教性や危険性についての神学的議論がほとんど行われてきませんでしたそのため、「共産主義はキリスト教と無関係の政治思想にすぎない」という非常に浅い理解が広がってしまったのです。しかし世界の教会はラインホルトニーバー然り、ニコライベルジャーエフ然り、共産主義の宗教性を看破していました。そして、ソ連・東欧の迫害、中国の地下教会弾圧、北朝鮮の主体思想による完全な宗教化といった現実を目の当たりにし、共産主義が“宗教的脅威”であることを熟知しています。
10. 結論:クリスチャンは共産主義を支持できるのか
すでに見てきたように、共産主義は政治思想であるだけでなく、救済論、終末論、倫理観、共同体構造、世界観を含む“宗教的体系”です。
しかもそれは、神を欠いた宗教であり、人間がメシアとなる思想です。
この意味で、キリスト教と共産主義は「別次元」ではなく、“同じ宗教的次元において真っ向から衝突するもの”です。バルトが繰り返した警告は、まさにこの点です。
日本で、改革派、カルヴァン派信仰を持っている、正統的信仰を持っていると公言している牧師の一部が、日本共産党の街宣車に乗って共産党を支持している現状があります。また、それを批判できない現状があるのは、当人も、またそれを容認する周りも共産主義が提示する世界観とは何たるかを理解しておらず、また自分たちが信じているキリスト教的世界観が何なのかという理解も乏しいことの証左でありましょう。
カール・バルトの言う「地上的メシア主義」、「神なき宗教」という概念は、共産主義の本質を鋭く言い当てています。結論として、クリスチャンが共産主義・共産党を救済思想として支持することは不可能です。なぜならそれは、“キリストを救い主としながら、同時に人間革命を救い主とする”という二重信仰の矛盾を抱えるからです。
したがって、キリスト教信仰の土台に立つ限り、共産主義、並びに日本共産党が掲げる科学的社会主義を支持することはできません。

コメント