Ⅰコリント3章10~17節「虎は死して皮を残す。クリスチャンは?」

説教

Ⅰコリント3章10~17節「虎は死して皮を残す。クリスチャンは?」

コンスタンティヌス症候群

正直に告白します。僕、実はイエス・キリストを信じてから何年間バプテスマをうけるのを拒んで来たんです。私の母教会は厳格な教会でしたし、バプテスマを受けて教会員になったら日曜日は教会に行かないといけないし、いろんな奉仕をしないといけないし、献金しないといけないし、いろいろと大変だと感じていました。それに、イエス・キリストを信じるだけで天国に行けて救われるのであれば、どうしてもバプテスマ受けて教会員になった方がいいというのであれば、イエス様を信じるだけ信じておいて、死ぬ直前でバプテスマを受けてクリスチャンになって、その教会でクリスチャンになって最後教会でお葬式だけしてもらったら一番得じゃないですか?

ほんとうにそんなふうに私は考えていて、たぶん中学生のころには信じていたけど、高校生になるまでバプテスマを受けないでいました。ただ、そんなふうに考えていたとはとは当時は口が裂けても言えなかったですが・・・。

右の絵は、バチカン宮殿のラファエロの間にある「コンスタンティヌス大帝の洗礼」です。コンスタンティヌス帝と言えば313年にキリスト教を公認したローマ皇帝です。世界史でも習った出来事でしょう。しかし、この絵は死の間際コンスタンティヌスが洗礼をうけているところを描いています。そう、この人、キリスト教を信じ、ローマ帝国にキリスト教を公認させておきながら自身はギリギリまでバプテスマを受けず、死ぬ間際になって滑り込みでバプテスマを受けたのです!

まさに、中高生の頃の私が理想とする、勝ち抜けな生き方、滑り込みでクリスチャンになる理想形です。

(※実際のところ、コンスタンティヌス帝が洗礼を先延ばしにしていたのは、神学上他にも理由があると言われていますが、今回は割愛します。)

そして、こんな風に、「信じるだけで救われるんだから、バプテスマ受けなくてもいいや」、あるいは「教会での様々な人間関係や奉仕から逃れて好きなように生きて、死ぬ直前に信心深くなって教会につながればいいや」と解釈してしまっている、クリスチャンやキリスト教シンパの人って案外多いように思います。

私は、こういう人を先に紹介したローマ皇帝から名をとって「コンスタンティヌス症候群」と勝手に命名しています。(コンスタンティンス大帝ごめんなさいm(__)m)

しかし、牧師となった今、過去に私が考えていたこのクリスチャンとして一番お得な勝ち抜け方法は、実はクリスチャンとして一番損な生き方であると今は断言できます。

「信じるだけで救われる」と「行いに応じて報いる」という一見すると相反するようにみえる二つのみことば

まず、最初に、そして、何度でも、何度でも口酸っぱくお話ししておきます。イエス・キリストを信じるだけで救われます。行いによっては救われません。これは何度でも何度でも確認しておきます。そして、今日の聖書箇所でも救われると言明されています。

しかしながら、ガラテヤ書6:6~9、黙示録22:11~12 のように、「行いに応じて報いる」と書いてある言葉は聖書に数多くあります。

「信じるだけで救われる」と

「行いに応じて報いる」これらはどのように整合性をとればよいのでしょうか?

神様が最も喜ばれるのは、いやいやではなく、神様の愛を受けた者として「愛の応答」として教会で神様を賛美礼拝することです。(マタイ22:33~38)

そして、イエス様は天に宝を積みなさいと勧めてくださっています。

また、ナルドの香油でイエス様を礼拝した女性を周りの弟子たちは非難しましたが、イエス様は彼女は今しかできない神への愛の応答を選び取ったのだからそれを責めるべきではないと擁護なさいました。(マルコ14:3~9)

以上のことから何がいえるかというと、例えば江戸幕府の幕藩体制の中では譜代大名と外様大名の違いがありました。家格、石高、いろいろと差がありましたけども、外様大名と譜代大名を分ける最大の違いは関ヶ原の戦いの以前か以後かが、両者を分ける大きな違いでした。外形的には徳川の世になるかならないかわからないときに、主君は徳川と決めて忠節を誓ったものの、徳川の世になることが決定的になってから忠節を誓ったものとでは、主君から見ればその質が決定的に違うのです。関ヶ原の戦い以後にいくら忠節を誓って300年間仕え続けたとしても外様は外様なのです。

今この時、キリスト者にとってはイエス・キリストこそ主、イエスキリストこそ神ですが、そうでないものにとっては、愚かに見えるこの時にイエスを主と告白し、主日ごとに礼拝することが、神様からみれば、私たちキリスト者がどれほどいとおしく、また、麗しく見えるのか…。

もちろん天国に行ってからも神様を賛美礼拝することができます。その上にも神様は溢れんばかりの恵、祝福をご用意してくださっていることでしょう。しかし、そうであるにもかかわらず、キリストはこの地上において、信仰生活を歩むうえで、教会につながるように、そして、天に宝を積むようにと進めておられるのです。神様は私たちが思っているよりも教会を愛し、教会で礼拝をする私たちを麗しく、そして、いとおしく思ってくださっているのです。

虎は死して皮を残す。人は死して名を残す。ではキリスト者は何を残すのかと言えば、地上ではなくて天に残る宝を残すのです。

コンスタンティヌス症候群治療法

ある人は、日曜礼拝はクリスチャンの義務だ。献金するのはクリスチャンの義務だ。誠実に神様にお仕えしなければ祝福されない。
そういって、脅すことによって人々を教会に鎖で繋げようとします。そのような教説には断固反対しますし、聖書はそのように教えていません。

このような脅しや呪いで人々を動かそうとする教説が蔓延るのは、先述の「コンスタンティンス症候群」に対する問題意識があってのことなのでしょうが、恵みによって動かない人を呪いと脅しで動かそうとするのは聖書の教えるところではありません。北風と太陽の寓話のように、恵みに麻痺して動かない人がいるのなら、「恵みを取り去ってありがたみをわからせる」のではなくて、「恵みの上に、さらに恵みをおっ被せて『恵み漬け』にされるのが、私たちの主が成就してくださった救いの有様なのです。

繰り返しになりますが、信じるだけで救われます。それだけで祝福されます。
そして、それ以降、日曜礼拝を守らなくても、献金をしなくても、聖書を読まなくても救いは取り去られることはありません。本日のテキストでもそのことは明らかです。(Ⅰコリント3章15節)

その上で、神様はなおも行いに応じて報うという形の祝福を用意しておられるのです。
そして、その行いも人間が岩にかじりつくように努力することにって報いるというよりは、聖霊がお膳立てしてくださって、神に奉仕し、神を賛美礼拝せずにはおれないように突き動かされるのです。其れもまた祝福です。

信じるだけで救われる恵みがあり、行いに応じて報いてくださる恵みがあり、その動機付けさえも聖霊が能動的に働いてくださる恵みがあるのです。

 

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