『チ。―地球の運動について―』原作28話、アニメ12話までのネタバレを含みます。
また、原作の話数に合わせて神学(考察)していきますので、以下の過去作をまだご覧になっていない方はご覧ください。
チ。地球の運動について を神学してみた。|サブカル好きの牧師|note
チ。地球の運動についてを原作に基づいて、週2回くらいのペースで神学(考察)していく予定です。
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あの油、何のために塗ったの?
異端審問官たちが迫るなか、バデーニを逃がし、地動説の研究を守るために、立ち向かうことを決めたオクジー。その出発を前に、バデーニが彼の額に油を塗り、祈ります。
緊迫した場面なのに、そこだけ時間がゆっくり流れるようです。いつもは尊大で、自分の研究を最優先するバデーニが、一人の人間のために祈っている。この場面が好きだという方も多いのではないでしょうか。
ただ、感動しつつも、「ところで、今のおでこに塗ったものは何?」と思いませんでしたか。
洗礼? おまじない? 戦闘前のパワーアップ?
今回は、本物のキリスト教の牧師である私が、あの場面を神学、もとい、教会の儀式という角度から考察してみます。
あれは「終油の秘跡」を描いた場面です。アニメの脚本を担当した入江信吾さんも、ご自身の解説でそう説明しています。名前は難しいですが、背景を知ると、バデーニの手つきが違って見えてきます。Page 3 of 5
「秘跡」は秘密の儀式ではありません
まず「秘跡」。なんだか秘密結社の儀式みたいですが、カトリック教会で大切にされている、神の恵みを伝えるしるしと儀式のことです。英語ではサクラメントといいます。
カトリックでは、洗礼、堅信、聖体、ゆるし、病者の塗油、叙階、結婚という七つの秘跡を認めています。今回の終油は、この「病者の塗油」の歴史的な呼び名です。
私はプロテスタントの牧師ですから、七つをそのまま秘跡として受け入れているわけではありません。ただ、違いがあるからこそ、相手の教えを相手の説明に即して理解したいと思います。
ここで大切なのは、油そのものに魔法の力がある、という話ではないことです。
カトリックでは、目に見える行為を通してキリストが働き、苦しむ人を恵みによって支えると理解します。油を塗れば攻撃力が上がるとか、死んでも自動的に天国へ行けるとか、そういう便利アイテムではありません。
では、そもそも、なぜ油なのでしょうか。
聖書には、病人に油を塗る場面がある
聖書を読んだことのない人にとっては意外かもしれませんが、病人に油を塗って祈ることは、新約聖書に出てきます。
ヤコブの手紙5章14~15節では、病気の人が教会の長老を招き、主の名によって油を塗って祈ってもらうよう勧められています。そこでは、主が病人を起き上がらせてくださることや、罪の赦しも語られています。
また、マルコによる福音書6章13節にも、イエスの弟子たちが多くの病人に油を塗っていやしたという記述があります。
つまり、中世の教会が突然、謎の油の儀式を発明したわけではありません。
古代の地中海世界では、油は食卓にあるだけでなく、身体の手入れや傷の処置にも用いられる身近なものでした。「善いサマリア人」のたとえでも、傷ついた人の傷に油とぶどう酒を注ぐ場面があります(ルカ10章34節)。油は、傷ついた身体をいたわるものでもあったのです。
そこに祈りが重なります。身体に触れ、神の助けを願う。頭の中だけで信じるのではなく、弱っている身体ごと支えられる。そういう信仰の姿が、油を塗るという行為にはあります。
なお、聖書にいやしが書いてあるからといって、「祈れば必ず治る。治らなければ信仰が足りない」とするのは、苦しんでいる人をさらに追い詰めます。カトリックの説明でも、この秘跡は、どんな場合にも治癒を保証するものとはされていません。cbcj.catholic.jp
「終油」なのに、死ぬ直前だけではない?
ところが、時代が下るにつれ、この塗油は、もっぱら死が迫った人に授けられるものとして受け止められるようになりました。そこで定着したのが「終油」という呼び名です。vatican.va
「終わりの油」と書かれれば、いかにも人生最後の儀式に思えますよね。映画などで、危篤の人のもとに神父が駆けつける場面を思い浮かべる方もいるでしょう。
しかし、出発点は病人のための祈りです。死を迎える備えだけでなく、苦しむ人を力づけ、回復を願う意味もありました。
第二バチカン公会議は、これを死の間際の人だけの秘跡と考えないよう促しました。今日では「病者の塗油」という呼び方が用いられ、重い病気や老齢によって命の危険に直面する人などに授けられます。一度受けたらそれで終わりでもなく、回復後にまた重病になった場合などには、再び受けることもできます。vatican.va
日本でも、病院に宗教者が来ると、「もうそんなに悪いんですか」と心配されそうです。けれども、祈りに来ることと、死期を告げに来ることは違います。
実際、教皇フランシスコも、司祭を呼ぶと病人が怖がるのではないか、というためらいに触れ、病者を慰め、支えるために来るのだと説明しています。こういう心配は、国や文化が違っても似ているのですね。cbcj.catholic.jp
では、戦いに向かうオクジーに授けてよいの?
さて、ここで牧師として、一つだけツッコミを入れておきます。
「死ぬ危険があるなら、戦いに行く人にも終油を授けるのか?」
現実のカトリックの説明では、受ける条件の中心にあるのは、病気や老齢による危険です。単に危険な場所へ行くことと、病者としてこの秘跡を受けることは同じではありません。ですから、作中の場面を、そのまま教会の標準的な実践だと思うと少しずれます。vatican.va
また、現在のローマ典礼では、祝福された植物油を額と手に塗ります。ただし、その現在の形式をそのまま中世に当てはめることもできません。儀式の形には歴史的な変化があります。vatican.va
もう一つ。「修道士なら誰でもできる」というわけでもありません。修道士とは修道生活を送る人のことで、司祭という務めとは別です。カトリックで病者の塗油を授けるのは、司祭または司教です。cbcj.catholic.jp
とはいえ、だから「この場面は間違い。以上」と片づけるのは、もったいないと思います。『チ。』のC教は、言わずもがなキリスト教を強く連想させますが、作品は歴史資料そのものではありません。
ここでは、終油という儀式を通じて、死を覚悟した相手を神に委ねる姿が描かれている。その表現として読むと、非常に深い場面です。
研究者バデーニが、人のために祈る
私が心を動かされるのは、油の正体が分かったからだけではありません。あのバデーニが、オクジーのために祈るからです。
知識も教養もあるバデーニと、学ぶ機会を十分に与えられなかったオクジー。二人の関係には、能力や立場の違いがありました。研究のために相手の力を必要とすることと、その人自身を大切にすることは、必ずしも同じではありません。
けれども、額に触れて祈る場面では、オクジーは観測のための優れた目でも、逃亡の時間を稼ぐ戦力でもない。一人の、神の前に生きる人間として扱われているように、私には見えます。
バデーニは、オクジーの安全を保証できません。頭脳がどれほど優秀でも、相手の命を思いどおりにはできない。それでも、祈ることはできる。
しかも、二人を追い詰める側にも宗教があり、送り出す祈りにも宗教があります。宗教を取り除けば自由になる、という単純な図式では終わらないのです。
人を裁く言葉になってしまうこともあれば、恐怖のなかにいる人を支える祈りにもなる。教会の人間としては、前者を他人事にせず、後者を大切にしたいところです。
このマンガ、凄くないですか。追う側の暴力だけでなく、追われる人のための祈りも描くことで、信仰が人にとって何であるかを、簡単には割り切らせてくれません。
あの油が伝えているもの
私はバプテストの牧師ですので、カトリックと同じ意味で終油の秘跡を執り行うことはありません。それでも、病む人のそばで聖書を読み、祈り、神にその人を委ねることは、牧師の大切な務めです。
苦しんでいる人を前にすると、何か気の利いた説明をしなければと思うことがあります。しかし、説明が尽くせなくても、その人のそばにいることはできます。
オクジーの額に塗られた油も、読者に儀式の知識だけを伝えているのではないでしょう。
言葉の少ないバデーニが、相手に触れ、祈る。その短い行為に、二人の間に育ったものが表れている。私はそう読みました。
終油という背景を知ったうえで、もう一度あの場面を見てみてください。皆さんには、あの祈りがどのように響くでしょうか。


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