『チ。―地球の運動について―』原作27話、アニメ12話までのネタバレを含みます。
また、原作の話数に合わせて神学(考察)していきますので、以下の過去作をまだご覧になっていない方はご覧ください。
チ。地球の運動について を神学してみた。|サブカル好きの牧師|note
チ。地球の運動についてを原作に基づいて、週2回くらいのペースで神学(考察)していく予定です。
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「この人、絶対に自分が間違っていると思ってないよな」
SNSを眺めていると、そう思うことがあります。反論されても聞く耳を持たず、不都合な証拠が出れば話をそらす。最後には相手の人格を攻撃し始める。そこまでして勝ちたいんかい、と言いたくなります。
ところが、いざ自分が批判される側に回ると、急に事情が変わります。「いや、私の場合はちゃんと理由がある」「相手がこちらの意図を理解していない」。他人の頑固さはよく見えるのに、自分の頑固さには立派な理由をつけてしまうのです。
『チ。』原作27話でオクジーがバデーニに投げかける問いは、そんな私たちにも刺さります。
ノヴァクが立ち去った後、逃亡の準備を進めるバデーニは、過去の研究資料を燃やします。そこでオクジーは、他者を排除すれば、自分の誤りに気づく機会まで失ってしまうのではないか、と問いかけるのです。
ここで問われているのは、天動説か地動説かという結論だけではありません。その結論を信じる自分が、間違っている可能性にどう向き合うか、という姿勢です。
私たち読者は、地球が動いていることを知っています。だから、つい地動説を支持する側に感情移入し、「正しい人たちが、間違った人たちに迫害される物語」として読みたくなります。
けれども、正しい結論にたどり着いた人が、いつでも正しい仕方で真理に向き合っているとは限りません。ある問題で正解したことは、その人のあらゆる判断を保証してくれないのです。
私はこの場面を読むと、プロテスタント神学、とりわけ改革派の伝統が大切にしてきた「全的堕落」という教えを思い出します。
字面がものすごいですね。全的に、堕落。朝から聞かされたら、それだけで一日やる気をなくしそうです。
ただし、これは「人間は全員、これ以上ないほど極悪非道だ」という意味ではありません。人を愛することも、正しい計算をすることも、優れた研究をすることもできない、という話でもありません。
「全的」とは、悪さの程度が最大だというより、罪の影響が人間の全体に及んでいるということです。感情にも、意志にも、そして理性にも。自分の内側に、罪とは無縁の安全地帯を確保することはできないのです。
改革派の信仰告白である『ウェストミンスター信仰告白』も、人間の堕落が魂と身体のあらゆる部分と能力に及ぶと述べています。
私たちは、欲望や感情なら間違うけれど、理性的に考えれば大丈夫だと思いがちです。しかし、その理性自体が、自分の欲望を正当化するために働くことがあります。
欲しいものを買った後で、必要だった理由を次々に思いつく。嫌いな人の発言だけ、やけに厳しく吟味する。自分に有利な情報はすぐ信じ、不利な情報にだけ「出典は?」と尋ねる。
頭がよければ、こうしたことをしなくなるのでしょうか。むしろ頭がよいぶんだけ、自分を守る説明が巧みになることだってあります。
全的堕落は本来、人間が自力で罪から抜け出し、神との関係を回復できるのかという、救いに関わる教えです。単なる「人間は間違えるものだ」という人生訓ではありません。『ドルト信仰基準』も、人間に自然や善悪についての認識が残っていることを認めながら、それによって自分を救うことはできず、神の恵みが必要だと教えています。
その人間理解を、知ること、考えることに引き寄せてみると、重たい問いが生まれます。
「私は真理を求めているのか。それとも、自分が正しかったと証明したいのか」
この二つは、外から見るとよく似ています。どちらも熱心に本を読み、資料を集め、議論します。本人にも区別がつかないことがあるでしょう。しかし、自分の結論を揺さぶる証拠が出たとき、違いが現れます。
真理を知りたいなら、痛くても調べ直す必要があります。自分の正しさを守りたいなら、その証拠のほうを遠ざけたくなります。
オクジーの問いが鋭いのは、それが地動説を敵視する側からの攻撃ではないからです。同じ研究に関わり、その価値に心を動かされている人が、研究の進め方を問い直している。
仲間からの異論は、ときに敵からの批判より腹が立ちます。「あなたまでそんなことを言うのか」と思ってしまうからです。けれども、大切なものを共有しているからこそ、黙っていられない人もいるのです。
ここで、「だから宗教は危ない。科学を信じればいい」と話をまとめてしまうと、せっかくの問いが小さくなります。信仰者であれ研究者であれ、自分への批判を受けつけなくなる可能性があります。そして改革派の教理を知っている人も、当然その例外ではありません。
「人間は罪深い。だから、あいつらは間違っている」
これだけなら、全的堕落は相手を殴るための便利な言葉になってしまいます。そこには、「それを言っているあなたはどうなのか」という問いが残ります。
牧師である私自身も、ここから逃げられません。聖書を語っているつもりで、自分の好みや面子を守っていないか。神の権威を、自分への批判を封じるために使っていないか。
神が正しいことと、神について語る私がいつも正しいことの間には、大きな隔たりがあります。聖書の権威を重んじるなら、自分の解釈を聖書そのものと取り違えない慎みも必要でしょう。
もっとも、間違いをすべて罪のせいにするのも乱暴です。資料が足りない、まだ習っていない、単に計算を間違えた。人間には限界があり、誤りにはさまざまな理由があります。問題は、間違いを指摘されたとき、その限界に加えて、認めたくないという意地まで働いてしまうことです。
では、自分が間違っているかもしれないと思うなら、何も信じないほうがよいのでしょうか。
そんなことはありません。
「真理がある」ということと、「私は真理を完全に理解している」ということは別です。地球がどう動いているかは、私たちの自信の強さでは決まりません。だからこそ、確かめる必要があるし、学び直す意味があります。
知的謙遜とは、何を聞かれても「人それぞれですよね」と答えることではないはずです。今ある根拠に基づいて判断し、その判断について説明する。同時に、新しい証拠や妥当な批判によって、考えを改める余地を残すことです。
反対意見なら何でも同じ重さで扱う必要もありません。根拠の弱い主張は、弱いと判断してよい。ただ、その物差しを自分の主張にも当てられるかどうかが問われます。
『チ。』のこの場面から私が受け取るのは、知識を一人で抱え込む危うさでもあります。自分では気づけない飛躍を、誰かが見つける。見慣れた資料に、別の人が新しい問いを立てる。異論を述べる人は、私の価値を奪う敵とは限りません。
もちろん、指摘されれば痛い。長年信じてきたことなら、なおさらです。意見を訂正するだけなのに、自分の人生まで否定されるように感じることもあります。
だから、ここで神学には、もう一つ語れることがあります。
キリスト教の福音では、人は一度も間違えず、いつも正しい側に立ってきた功績によって、神に受け入れられるのではありません。罪ある者を救うために来られたキリストの恵みによって、受け入れられるのです。
もし私の価値が、自分の無謬性にかかっているなら、訂正は恐怖です。無謬性とは、決して間違わないということ。でも、そんなものを維持しようとしたら、毎日が証拠隠滅で忙しくなってしまいます。
けれども、誤りも罪もある私が恵みによって支えられているなら、「私が間違っていました」と言う道が開かれます。認めた後には、謝ることも、償うことも、学び直すこともできます。
全的堕落の教えを知っただけで、謙虚になれるわけではありません。「私は人間の罪深さをよく知っている」という、新しい自慢が増えることさえあります。それでも、この教えを自分自身に向けて聞き続けることには意味があります。
オクジーの問いを、バデーニへの批判として読むだけで終えたくありません。
私には、安心して異論を言える相手がいるだろうか。その人が口を開いたとき、最後まで聞けるだろうか。正しさを語りながら、訂正される道を自分で塞いではいないだろうか。
「自分が間違っているかもしれない」
その一言を口にするのは、少し怖い。でも、その言葉の後で初めて聞こえてくる話があるのだと思います。


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