『チ。―地球の運動について―』原作29話、アニメ12話までのネタバレを含みます。
また、原作の話数に合わせて神学(考察)していきますので、以下の過去作をまだご覧になっていない方はご覧ください。
チ。地球の運動について を神学してみた。|サブカル好きの牧師|note
チ。地球の運動についてを原作に基づいて、週2回くらいのペースで神学(考察)していく予定です。
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そんな死に方をした人、本当にいるの?
『チ。』原作29話を読んでいて、自分の剣に倒れ伏して死ぬという描写に、「そんな死に方をする人がいるんかい」と思った方もいるのではないでしょうか。
戦争を描いた物語には、現代の日常からは想像しにくい場面が出てきます。けれども、少し意外に見える描写が、古い文献を読んでいると、別の時代の出来事と重なることがあります。
私が思い出したのは、旧約聖書に登場するサウル王の最期でした。
サウルとは、聖書がイスラエルの最初の王として描く人物です。ダビデなら聞いたことがある、ソロモンなら知っている、という方でも、その前の王となると、少しなじみが薄いかもしれません。
ところが、その初代国王について、聖書には自分の剣に倒れ伏して命を落としたと書かれているのです。
今回は、本物のキリスト教の牧師である私が、『チ。』の一場面から、古代イスラエルの王様の話へ少し寄り道してみたいと思います。
ダビデの前に、サウルという王がいた
聖書のイスラエルは、最初から王様のいる国だったわけではありません。王を求める民の声を受け、預言者サムエルによって選ばれたのがサウルでした。
「初代国王」と聞くと、野心に満ちた人物が、力ずくで王位をつかんだように想像するかもしれません。
しかし、サウルの登場場面は、そんなイメージとは少し違います。王として人々の前に立つはずの本人が、荷物の間に隠れていて、探し出されるのです(サムエル記上10章22~24節)。
王様、そこに隠れてどうするんですか。
そうツッコミたくなりますが、いきなり国を背負えと言われて、しり込みする気持ちは分からなくもありません。少なくとも、最初から自信満々の独裁者として登場するわけではないのです。
ところが、王になった後のサウルは、次第に、自分の地位を脅かす相手への不安と嫉妬にとらわれていきます。
その相手が、若き日のダビデでした。
巨人ゴリアトを倒したダビデは、戦いで活躍し、人々の人気を集めます。それを素直に喜べなくなっていくのがサウルです。自分の部下の活躍なのだから、国王としてはありがたいはずなのに、自分より評価されるとなると話が変わる(サムエル記上18章6~9節)。
これ、古代の王様だけの話でしょうか。若い人に活躍してほしいと言いながら、いざ自分以上に注目されると面白くない。現代の職場にも、残念ながら教会にも、ありそうな話です。
聖書の王様は、遠い昔の偉人であると同時に、けっこう身近な弱さを持つ人でもあります。
ギルボア山で迎えた最期
サウルの最期が描かれるのは、サムエル記上31章です。
イスラエル軍はペリシテ軍と戦い、敗走します。場所はギルボア山。サウルの息子たちも倒れ、王自身も深手を負います。
そこでサウルが恐れたのは、敵の手に落ち、辱めを受けることでした。彼は武器を持つ従卒に自分を殺すよう命じますが、従卒は恐れて従えません。
その後について、新共同訳聖書は、こう記します。
「サウルは剣を取り、その上に倒れ伏した。」
――サムエル記上31章4節
『チ。』を読んで私が思い出したのは、この短い一文です。
しかも、続く5節では、サウルの死を見た従卒も同じように命を落としたと記されています。王の死だけでなく、そのそばにいた人の死まで描かれているのです。
勇壮な戦争物語の締めくくりというよりも、敗北のなかで人が追い詰められていく、痛ましい場面です。
ここで、「なるほど、昔の人は勇敢だった」とまとめてしまうのは、少し違うと思います。本文が伝えるサウルの状況には、傷も、敗北も、捕らえられることへの恐れもあります。その死に方だけを切り取って、立派だとか、弱いとか、簡単には言えません。
聖書は、きれいごとだけの本ではない
聖書を読んだことのない人は、聖書とは「心の清い人が、正しいことをして、神様に褒められる本」だと思っているかもしれません。
もちろん、励まされる言葉や、美しい祈りもたくさんあります。
しかし、まとまった範囲を読んでみると、嫉妬も、裏切りも、権力争いも、家族のいさかいも出てきます。王様だから立派、信仰者だから間違えない、とは描かれていません。
サウルの人生にも、期待を背負って始まった時期があり、王として働いた日々があり、判断を誤り、人を傷つけた時期があります。そして、最後には戦場で命を落とす。
その結末だけを見ると、暗い話です。ただ、聖書は都合の悪い部分を削って、初代国王の美談に仕立て直してはいないのです。
私はプロテスタントの牧師ですから、聖書を信仰の書として読みます。それでも、その信仰の書が、人間の現実をここまで隠さず描いていることに、何度も立ち止まらされます。
『チ。』も、人の信念を描きながら、その人を取り巻く恐怖や暴力を消してはくれません。読んでいて苦しくなるのは、そこに人間の姿があるからでしょう。
では、魚豊先生はサウルを引用したのか?
さて、ここは分けて考えておきたいところです。
「聖書にも似た描写がある」ということと、「魚豊先生がその聖書箇所を直接引用した」ということは、同じではありません。
作者の説明などで確認できない以上、「これはサウル王のオマージュです」とまでは言えません。『チ。』の人物とサウルでは、置かれている状況も、物語の中での役割も違います。
また、サウルの死が聖書に記されていることと、その細部を考古学などによって独立に確かめられることも別です。ここでは、まず「古い聖書の物語に、同じような最期が記されている」と受け止めるのが丁寧でしょう。
とはいえ、それだけでも、読む楽しみは増えます。
現代の私たちが「そんなことがあるのか」と驚く描写にも、長い歴史の中で語り継がれてきた先例がある。少なくとも、現代の漫画で突然思いつかれた表現、と決めつけることはできません。
何でも聖書に結びつければよいわけではありませんが、知っている物語が一つ増えると、目の前の作品の見え方も少し変わります。
今回なら、「そんな死に方、めちゃくちゃでは?」と思ったところで、「そういえば、サウルもそうだった」と、古い物語への扉が開くのです。
サウルの物語は、死んだところで終わらない
もう一つだけ、付け加えたいことがあります。
サウルの死後、その死を知らされたダビデは、喜びませんでした。長く命を狙われてきたのですから、「これで安心だ」と思っても不思議ではないのに、サウルと、その息子で親友だったヨナタンのために哀歌を詠みます(サムエル記下1章17~27節)。
自分を苦しめた相手であっても、その死を、ただの勝利の知らせにはしない。
この続きまで読むと、サウルは「変わった死に方をした王様」という豆知識だけでは収まらなくなります。誰かの父であり、誰かの王であり、死を悼む人のいる一人の人間だったのです。
漫画でも、ほんの短い場面に登場する人には、その場面以前の人生があったはずです。『チ。』を読むときも、中心人物の信念を追うだけでなく、その周囲で命を落としていく人々のことを、ときには考えてみたいと思います。
自分の剣に倒れ伏すという描写から、思いがけず、イスラエル初代国王の物語にたどり着きました。
聖書を知ると、漫画の何気ない一場面から、こんな寄り道ができる。今回は、それくらいの発見を持ち帰っていただけたら嬉しいです。

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