スヌーピー

サブカルを神学してみた

スヌーピーを神学してみた(4)―かぼちゃ大王は来なかった。でも、ルーシーは来た

『ピーナッツ』をあまり知らない方のために説明しておきます。ライナスには、少し変わった信仰があります。毎年ハロウィーンの夜になると、世界でいちばん「誠実な」かぼちゃ畑から、かぼちゃ大王が現れる。そして、よい子どもたちにおもちゃを届けてくれる――彼はそう信じています。友だちは仮装して、お菓子をもらいに町へ出かけます。しかしライナスは畑に残ります。毛布にくるまり、夜空を見上げ、かぼちゃ大王を待ち続けるのです。しかも、自分一人で信じるだけではありません。チャーリー・ブラウンの妹サリーを誘い、とうとう一緒に待たせてしまいます。
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スヌーピーを神学してみた(3)―負け続けるチャーリー・ブラウンは、ヨブだったのか

チャーリー・ブラウンほど、報われない主人公も珍しいでしょう。野球をすれば負ける。凧を揚げれば木に引っかかる。勇気を出してフットボールを蹴ろうとすれば、ルーシーが直前にボールを引っ込める。憧れの赤毛の女の子には、なかなか声さえかけられません。普通、物語の主人公は成長します。最初は弱くても、特訓して強くなる。失敗を重ねても、最後には成功する。だから私たちは安心して見ていられます。「いまは負けているけれど、この失敗はきっと最終回の勝利につながる」と思えるからです。ところが、チャーリー・ブラウンは、何十年たってもボールを蹴らせてもらえません。いや、そろそろ学習しようよ。読者はそう思います。しかし彼は、次の秋になると、またルーシーを信じて走り出すのです。そんな彼を見ていると、聖書に出てくる一人の人物を思い出します。ヨブです。
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スヌーピーを神学してみた(2)―聖書を教えた漫画家は、なぜ教会から離れたのか

スヌーピーと聞いて、まず「キリスト教」を思い浮かべる人は、たぶん少ないでしょう。白い犬。赤い屋根。黄色い鳥。マグカップに文房具。かわいくて、少しとぼけていて、ときどき妙に人生の核心を突いてくる。けれども、その犬を生み出したチャールズ・M・シュルツは、一時期、教会で聖書を教えていた人でした。それだけ聞けば、話は簡単です。「なるほど。『ピーナッツ』は、敬虔なクリスチャン漫画家が描いたキリスト教漫画だったのか」しかし、調べていくと、そんなにきれいにはまとまりません。彼は教会に熱心に通い、聖書研究を導き、テレビ局が難色を示してもクリスマス物語から聖書を外しませんでした。その一方で、晩年には教会から距離を置き、自分を「世俗的ヒューマニスト」と呼んでもいます。熱心な信仰者だったのか。信仰を捨てた人だったのか。たぶん、その二択で人間を理解しようとすること自体が、少し乱暴なのです。
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スヌーピーを神学してみた。(1)聖書で「盗み食い」を正当化した犬

牧師という仕事をしていると、「聖書にこう書いてあります」という言葉の強さを、嫌というほど知ることになります。説教でも、教会のミーティングでも、何かを決めるときに聖書の言葉が示されると、それだけで話が決まったような空気になることがあります。何しろ、こちらは人間の意見ですが、向こうは神の言葉です。「私はそう思いません」とは言えても、「神様、それはどうかと思います」とは、なかなか言えません。ところが、です。聖書の言葉を口にしているからといって、その使い方まで正しいとは限りません。自分の考えを聖書に従わせるのではなく、自分に都合のよい聖句を探して、聖書の方を自分に従わせてしまうことがあるからです。そんな、かなり深刻な聖書解釈の問題を、世界一有名なビーグル犬が見事にやってのけた漫画があります。スヌーピーです。