スヌーピーを神学してみた。(1)聖書で「盗み食い」を正当化した犬

サブカルを神学してみた

聖書にはこう書いてある!!!

牧師という仕事をしていると、「聖書にこう書いてあります」という言葉の強さを、嫌というほど知ることになります。

説教でも、教会のミーティングでも、何かを決めるときに聖書の言葉が示されると、それだけで話が決まったような空気になることがあります。何しろ、こちらは人間の意見ですが、向こうは神の言葉です。「私はそう思いません」とは言えても、「神様、それはどうかと思います」とは、なかなか言えません。

ところが、です。

聖書の言葉を口にしているからといって、その使い方まで正しいとは限りません。自分の考えを聖書に従わせるのではなく、自分に都合のよい聖句を探して、聖書の方を自分に従わせてしまうことがあるからです。

そんな、かなり深刻な聖書解釈の問題を、世界一有名なビーグル犬が見事にやってのけた漫画があります。

スヌーピーです。

冷蔵庫を開けた犬に、十戒が突きつけられる

1981年10月18日掲載の『ピーナッツ』で、スヌーピーがチャーリー・ブラウンの家の冷蔵庫を開け、勝手に食べ物を取っています。

それを見つけたチャーリー・ブラウンは、聖書を持ってきます。そして、出エジプト記20章15節をスヌーピーに示します。

「盗んではならない。」

十戒の第八戒です。

これはもう、反論の余地がないように思えます。ほかの家の冷蔵庫を勝手に開けて、食べ物を持っていく。どう考えてもアウトです。犬だから刑事責任は問えないかもしれませんが、少なくともチャーリー・ブラウン家のルールには違反しています。

ところがスヌーピーは、聖書を受け取ると、別の箇所を開いてチャーリー・ブラウンに返します。そこに書かれていたのは、申命記25章4節でした。

「脱穀している牛に口籠(くつこ)を掛けてはならない。」

つまりスヌーピーは、「働いている動物に食べるなと言ってはいけない、と聖書に書いてあるではないか」と反論したわけです。

いや、待ってください。

君は牛ではありません。脱穀もしていません。人の家の冷蔵庫を開けただけです。

それにしても、です。十戒に対して申命記で応戦してくる犬など、世界中を探してもスヌーピーくらいではないでしょうか。

牛に口籠(くつこ)を掛けてはならない理由

申命記の時代、脱穀には牛が用いられました。牛に穀物を踏ませたり、脱穀用の道具を引かせたりして、穂から実を取り出します。

そのとき、牛が目の前にある穀物を食べないよう、口籠を掛ければ、持ち主は収穫を一粒でも多く確保できます。しかし神は、それを禁じました。働いている牛にも、目の前の実を食べることを許しなさいというのです。

これは、効率や利益だけを優先して、生き物を酷使してはならないという戒めです。聖書の神は、人間の礼拝や祈りだけでなく、働かされる動物がきちんと食べられるかまで心にかけています。

ですから、スヌーピーがこの聖句に目をつけたこと自体は、なかなか鋭いのです。彼は確かに犬であり、人間のために働くこともあります。

ただし、そのとき脱穀していたわけではありません。そもそも誰かに働かされていたわけでもありません。

聖句は間違っていません。問題は、その聖句を自分の盗み食いに当てはめたことです。

これはいわば、食べ物のつまみ食いを正当化するために、聖句までつまみ食いしたわけです。

聖書を引用したのはスヌーピーだけではない

実は聖書の中にも、聖書を引用して相手を動かそうとした存在が登場します。

イエスが荒れ野で誘惑を受けたとき、悪魔はイエスを神殿の屋根の端に立たせ、そこから飛び降りるように促しました。その際、悪魔は詩編91編を引用します。神は天使たちに命じて、あなたを守らせると書いてあるではないか、というのです。

悪魔は聖書を知らなかったのではありません。むしろ、よく知っていました。ただし、その目的は神に従うことではなく、イエスに神を試させることでした。

もちろん、スヌーピーを悪魔扱いするつもりはありません。そんなことをしたら、世界中のスヌーピーファンを敵に回します。

しかし、ここが面白いところです。

聖書を引用しただけで、神の御心に従ったことにはならないのです。聖書の言葉を、誰が、何のために、どの文脈で使うのかが問われます。

パウロもスヌーピーと同じ聖句を使った

さらに面白いことに、使徒パウロも、スヌーピーと同じ申命記25章4節を引用しています。

コリントの信徒への手紙一9章で、パウロは、福音を伝える働き人が教会から生活の支えを受けることについて語ります。畑で働く人が収穫にあずかり、羊の世話をする人がその乳を飲むように、福音のために働く人にも生活を支えてもらう権利がある。その根拠として、「脱穀している牛に口籠を掛けてはならない」を引用するのです。

牛についての戒めを、牧師や伝道者に当てはめる。表面だけ見れば、パウロもスヌーピーと同じことをしているように見えます。

牧師である私がここだけを力説すると、「先生、給料を上げてほしいんですか?」と思われそうです。急にスヌーピー感が出てきます。

しかしパウロは、この権利を主張した後で、自分はその権利を用いなかったと言います。福音の妨げにならないために、受け取る権利があっても自ら手放したのです。

スヌーピーは、聖句を使って自分が食べ物を得ようとしました。パウロは、同じ聖句で働き人が支えられるべき原則を示しながら、自分自身はその権利を放棄しました。

同じ聖句なのに、向いている方向が反対です。

一方は、自分の欲望を守るために聖書を使う。もう一方は、他者の権利を守り、自分の権利を手放すために聖書を使う。

正しい聖書解釈とは、難しい知識をたくさん持つことだけではありません。その解釈が、結局誰を得させ、誰を守り、誰に犠牲を押しつけているのかを見る必要があります。

私たちも聖句をつまみ食いしていないか

私たちはスヌーピーを笑えません。

誰かを赦させたいときだけ「七の七十倍まで赦しなさい」と言い、傷つけられた人の痛みには耳を傾けないことがあります。自分への批判を止めたいときだけ「人を裁くな」と言い、自分が他人を批判するときには「愛をもって真理を語っている」と言うこともあります。

聖書は、冷蔵庫から自分の好物だけを取り出すように読むものではありません。

私たちが聖書を読むのは、自分の正しさを神に認めさせるためではなく、自分の考えや生き方を神の言葉によって問い直してもらうためです。

自分の望む答えが出るまでページをめくり続けるなら、手に持っているものは聖書でも、していることはスヌーピーと変わらないかもしれません。

聖書に自分を従わせるのか。

それとも、自分に聖書を従わせるのか。

冷蔵庫の前に立つスヌーピーは、何も語りません。しかし、彼が開いた申命記のページは、聖書を読む私たちに、かなり鋭い問いを突きつけています。

サブカルは、神学してみるともっと面白い。

そして聖書も、サブカルから入るともっと身近になります。


参考資料

※聖書引用は『聖書 新共同訳』によります。

最後に

今後も「ピーナッツ」をはじめ、マンガ、アニメやゲーム、サブカルをテーマにして本物の牧師がいろいろ神学(考察)していこうと思います。感想、コメント、「スキ(いいね)」、フォローくださると励みになります。また、神学(考察)してほしい、アニメやゲームがありましたら、コメントください。また先日から全記事無料化しています。活動の継続の為に皆さんからのカンパをよろしくお願いします。

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