スヌーピーを神学してみた(4)―かぼちゃ大王は来なかった。でも、ルーシーは来た

サブカルを神学してみた

信じる者は救われる?!

「信じることは大切です」

よく聞く言葉です。

たしかに、何も信じられない人生は寂しい。人を信じること。明日を信じること。神を信じること。信じる力が、私たちを立ち上がらせることはあります。

けれども、ここで少し意地の悪い質問をしてみましょう。

強く信じさえすれば、何を信じてもよいのでしょうか。

もし、信じている相手が「かぼちゃ大王」だったとしても。

ハロウィーンの夜、畑で待ち続ける少年

『ピーナッツ』をあまり知らない方のために説明しておきます。

ライナスには、少し変わった信仰があります。

毎年ハロウィーンの夜になると、世界でいちばん「誠実な」かぼちゃ畑から、かぼちゃ大王が現れる。そして、よい子どもたちにおもちゃを届けてくれる――彼はそう信じています。

友だちは仮装して、お菓子をもらいに町へ出かけます。しかしライナスは畑に残ります。毛布にくるまり、夜空を見上げ、かぼちゃ大王を待ち続けるのです。

しかも、自分一人で信じるだけではありません。チャーリー・ブラウンの妹サリーを誘い、とうとう一緒に待たせてしまいます。

その結果は、みなさんの予想どおりです。

かぼちゃ大王は来ません。

サリーは、お菓子をもらう機会を逃したことに激怒します。ライナスは失望します。それでも最後には、「来年こそ」と叫びます。

かぼちゃ大王は1959年のコミックに登場し、1966年のテレビ作品『スヌーピーとかぼちゃ大王』によって広く知られるようになりました。シュルツ美術館によれば、シュルツは、聡明なのに無邪気なライナスがハロウィーンとクリスマスを混同する、いわばクリスマスのパロディーとしてこの設定を考えたそうです。かぼちゃ大王には、サンタクロースの性質が与えられています(チャールズ・M・シュルツ美術館)。

ですから、これはキリスト教信仰を直接からかった作品だ、と決めつけるべきではありません。

しかしシュルツは、そこに「信仰」「誠実さ」「伝道」「待望」といった、驚くほど宗教的な言葉を置きました。おかげで、かぼちゃ畑は小さな神学校になってしまったのです。

誠実であることと、正しいことは同じではない

ライナスは不真面目ではありません。

ふざけているわけでも、人をだましているわけでもない。彼は本気です。友だちに笑われても、寒い畑に残り、眠気と闘って待ち続けます。

その姿は、ある意味で立派です。

けれども、誠実さは、信じている内容を真実にはしてくれません。

大阪へ行くつもりで札幌行きの列車に乗った人が、どれほど真剣に「この列車は大阪へ行く」と信じても、列車の行き先は変わりません。信じる力が強いほど、間違った方向へ力強く進んでしまうことさえあります。

聖書も、「とにかく何かを熱心に信じればよい」とは語りません。

パウロは、熱心ではあるが、その熱心さが正しい知識に基づいていない人々について語りました。熱心さそのものを否定したのではありません。ただし、熱心さだけでは足りないと言ったのです。

聖書の信仰には、必ず対象があります。

「信じなさい」だけではなく、「主イエスを信じなさい」と語る。大切なのは、私がどれほど強く握っているかだけではなく、誰を握っているかなのです。

「来なかった」を認められない信仰

かぼちゃ大王信仰の厄介なところは、何が起きても間違いだと証明されないことです。

かぼちゃ大王が来れば、「やはり正しかった」。来なければ、「この畑の誠実さが足りなかった」「来年こそ来る」。失敗さえ、信仰を続ける理由に変わります。

これは、笑い話で終わりません。

「信じれば必ず病気が治る」と言われた人が、治らなかったとき、「あなたの信仰が足りなかった」と責められる。「この日に世界が終わる」と予告した人が、何も起きなかったとき、日付を計算し直す。「この献金をすれば必ず祝福される」と言いながら、結果が出なければ、献げ方が足りないことにされる。

どんな結果が出ても教えの側は傷つかず、苦しんでいる人だけが責任を負わされます。

これは信仰ではなく、反証を許さない仕組みです。

聖書は、そんなふうには書かれていません。

パウロは、もしキリストが復活していないなら、自分たちの宣教も信仰も空しい、とまで言いました。つまりキリスト教信仰は、「事実がどうであれ信じ抜けば勝ち」という話ではないのです。神が歴史の中で何をなさったか。その証言が真実か。そこに自分の信仰を賭けています。

疑問を持つことも、信仰の敵とは限りません。

復活を疑ったトマスに、イエスは「質問するな」とは言われませんでした。傷を示し、確かめるよう招かれました。

1976年の『ピーナッツ』では、作家になったスヌーピーが神学の本を書き、その題を「自分が間違っているかもしれないと思ったことは?」とします。『ピーナッツ』と宗教を研究したスティーブン・J・リンドは、この作品を、神学には疑いを受け止める余地があるか、という問いとして読んでいます(Unpacking Peanuts)。

自分が間違っている可能性を考えられることは、信仰の弱さではありません。

むしろ、自分の信念を神そのものにしてしまわないための謙遜です。

かぼちゃ大王は来なかった。でも、ルーシーは来た

それでも私は、ライナスを笑って終わりたくありません。

彼は、笑われても希望を手放したくなかったのです。世界には、自分を覚えていて、暗い夜に贈り物を携えて来てくれる誰かがいる。そう信じたかったのでしょう。

問題は、その願いが滑稽だったことではありません。

願いを託した相手が、来ない相手だったことです。

テレビ作品の終盤、真夜中を過ぎてもライナスは、かぼちゃ畑で眠り込んでいます。午前四時、ルーシーは弟がベッドにいないことに気づきます。彼女は畑へ出ていき、凍えたライナスを見つけ、抱えて家へ連れ帰り、靴を脱がせ、ベッドに寝かせます。

ここが、私はたまらなく好きです。

かぼちゃ大王は来ませんでした。

でも、ルーシーは来ました。

いつも威張っていて、言葉がきつく、弟の毛布をからかうあのルーシーが、何も説教せずに迎えに来るのです。

彼女は、かぼちゃ大王が本当にいるとは言いません。ライナスの信念を肯定したわけではない。それでも、間違ったものを信じて傷ついた弟を、畑に置き去りにはしませんでした。

ここには、教会が覚えるべき大切な姿があると思います。

誤りを誤りと呼ぶことと、誤った人を見捨てることは、同じではありません。

誰かが傷つく教えを信じていたなら、その教えを吟味する必要があります。しかし「そんなものを信じたあなたが悪い」と、寒い畑に置いて帰ってはならないのです。

真理は、人を殴るための棒ではありません。

迷った人を家へ連れ帰る灯りです。

私たちを救うのは、「信仰の強さ」ではない

福音は、世界でいちばん誠実な人のところへ、神がご褒美を持って現れる物語ではありません。

聖書は、私たちが立派になり、疑わず、完全に信じられるようになったので、キリストが来られたとは語りません。むしろ、私たちがまだ罪人であったとき、キリストは私たちのために死なれた、と語ります。

救いは、信仰心の強さを競う大会の優勝賞品ではないのです。

私たちの信仰は揺れます。疑います。ときには、見当違いの畑で、来ないものを待ってしまいます。

それでも神は、正しい答えを出せた者だけを愛されるのではありません。

キリスト教信仰の望みは、私たちが一度も間違えないことではなく、間違いの中にいる私たちを探しに来る方がおられることです。

信仰の価値は、握る手の強さだけで決まりません。

その手が、どなたに握られているかで決まります。

かぼちゃ大王は来ませんでした。

しかし福音は、夜の畑に取り残された者を、神は迎えに来られる、と告げています。

そして次回、同じライナスが、今度はクリスマスの舞台で聖書を開きます。彼が語る「恐れるな」という言葉から、『ピーナッツ』のクリスマスを考えてみたいと思います。

最後に

今後も「ピーナッツ」をはじめ、マンガ、アニメやゲーム、サブカルをテーマにして本物の牧師がいろいろ神学(考察)していこうと思います。感想、コメント、「スキ(いいね)」、フォローくださると励みになります。また、神学(考察)してほしい、アニメやゲームがありましたら、コメントください。また先日から全記事無料化しています。活動の継続の為に皆さんからのカンパをよろしくお願いします。

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