スヌーピーを神学してみた(3)―負け続けるチャーリー・ブラウンは、ヨブだったのか

サブカルを神学してみた

主人公らしからぬ主人公チャーリー

チャーリー・ブラウンほど、報われない主人公も珍しいでしょう。

野球をすれば負ける。凧を揚げれば木に引っかかる。勇気を出してフットボールを蹴ろうとすれば、ルーシーが直前にボールを引っ込める。憧れの赤毛の女の子には、なかなか声さえかけられません。

普通、物語の主人公は成長します。

最初は弱くても、特訓して強くなる。失敗を重ねても、最後には成功する。だから私たちは安心して見ていられます。「いまは負けているけれど、この失敗はきっと最終回の勝利につながる」と思えるからです。

ところが、チャーリー・ブラウンは、何十年たってもボールを蹴らせてもらえません。

いや、そろそろ学習しようよ。

読者はそう思います。しかし彼は、次の秋になると、またルーシーを信じて走り出すのです。

そんな彼を見ていると、聖書に出てくる一人の人物を思い出します。

ヨブです。

野球場で始まった「苦難の神学」

これは、単なる深読みではありません。

1967年9月の『ピーナッツ』に、試合で大差をつけられたチャーリー・ブラウンの野球チームが、グラウンドで「人間はなぜ苦しむのか」を話し始める日曜版があります。

ライナスはヨブ記を持ち出し、ヨブがただ黙って我慢した人ではなかったことを指摘します。ルーシーは、夫に神を呪うよう勧めたヨブの妻に共感する。ほかの子どもたちも、それぞれの立場から苦しみについて口を挟みます。

野球の試合中です。

しかも、たぶん負けがほぼ決まっている試合中です。

監督であるチャーリー・ブラウンとしては、神義論を論じている場合ではありません。まず一点を取りにいけ、という話です。

しかし、ここに『ピーナッツ』らしさがあります。

神義論とは、「善良で全能の神がいるなら、なぜ悪や苦しみが存在するのか」を考える神学です。神学校で何年もかけて論じるような問題を、シュルツは、負け試合のマウンドに子どもたちを集めて語らせました。

そしてチャーリー・ブラウン自身は、そこで立派な答えを述べません。

答えを持たないまま、真ん中に立っています。

そもそもヨブとは誰か

ここで、ヨブを知らない方のために、少し説明しておきましょう。

ヨブは、旧約聖書の『ヨブ記』に登場する人物です。東の国に住む、正しく、神を畏れる裕福な人として描かれています。家族にも財産にも恵まれていました。

ところがある日、彼の人生は一気に崩れます。

財産を失い、子どもたちを失い、自分自身も重い病に苦しむことになります。しかもヨブには、これほどの災難に遭うような心当たりがありませんでした。

ヨブ記は、なぜ正しい人が苦しむのか、という問いを扱った聖書の物語です。

ヨブの友人たちは、「神は正しいのだから、あなたが苦しんでいるのには何か理由があるはずだ」と考えます。しかしヨブは、自分に隠れた罪があるという説明を受け入れません。彼は神に向かって、「なぜ私がこんな目に遭うのか」と問い続けます。

やがて神ご自身がヨブに語りかけますが、苦難の理由を簡単に説明するわけではありません。

つまりヨブは、ただ我慢して最後にご褒美をもらった人ではありません。理由の分からない苦しみの中で、神に問い、怒り、嘆き、それでも神との関係を手放さなかった人なのです。

ヨブは「我慢したから合格した人」ではない

ヨブの物語を初めて知る人は、ヨブが苦しみの中で何をしたのかに驚くかもしれません。

ヨブは、黙って耐え続けた人ではありません。

しかも、かなり激しく愚痴ります。

自分が生まれた日を呪い、なぜ神は自分を苦しめるのかと問い、神を法廷へ呼び出してでも理由を聞きたいと訴えます。

「信仰があるなら、黙って耐えなさい」という物語ではありません。

むしろ、神に向かって問い続ける物語です。

ヨブ記の不思議なところは、ヨブの乱暴な言葉を聖書から削除しなかったことです。きれいな信仰者に編集し直さず、怒りも、嘆きも、納得できなさも、そのまま祈りの中に残しました。

チャーリー・ブラウンも、負けるたびに達観するわけではありません。

やれやれ、とため息をつく。落ち込む。もうだめだと思う。ルーシーの五セント心理相談所に行く。そして、あまり役に立たない助言をもらって帰ってくる。

それでも彼は、物語から退場しません。

いちばん怖いのは、ヨブの友人になること

ヨブが苦しんでいると、三人の友人が訪ねてきます。

最初の七日間、彼らは何も言わず、ヨブと一緒に地面へ座りました。ここまではよかったのです。

問題は、口を開いてからでした。

「神は正しい。だから、あなたがこれほど苦しむのには理由があるはずだ」

「何か罪を隠しているのではないか」

「悔い改めれば、またうまくいく」

一つ一つは、宗教的に聞こえます。しかし結局は、苦しんでいるヨブに責任を負わせています。

私たちも、同じことをしがちです。

病気が治らない人に、「もっと信じたら」。教会で傷ついた人に、「赦せないあなたにも問題がある」。仕事がうまくいかない人に、「感謝が足りない」。子どもが学校へ行けなくなった家庭に、「育て方のどこが悪かったのでしょうね」。

正しいことを言っているつもりで、苦しむ人の隣に、もう一つ十字架を立ててしまうのです。

ルーシーの人生相談が笑えるのは、彼女があまりにも堂々と、相手の問題を相手のせいにするからでしょう。

けれども笑ったあとで、少し怖くなります。

教会の中で、私はルーシーになっていないだろうか。

「敗者」ではなく、「負け続けている人」

シュルツ美術館は、チャーリー・ブラウンの特徴を「途方もない敗北を前にしても持ち続ける忍耐」と紹介しています。シュルツ自身も、彼は大げさなほど負け続けるが、「敗者なのではない。実に感じのよい子なのだ」と語りました(チャールズ・M・シュルツ美術館)。

ここには、大切な区別があります。

負けた人と、敗者は同じではありません。

失敗した人と、失敗作も同じではありません。

学校へ行けなかった。試験に落ちた。結婚が壊れた。仕事を辞めた。祈っても願った結果にならなかった。

それは、その人に起こった出来事です。しかし、いつの間にか私たちは、「私は失敗した」を「私は失敗作だ」に変えてしまいます。

チャーリー・ブラウンは負け続けます。

けれども、シュルツは彼を「敗者」として描きませんでした。

なぜなら、彼は次の日にも野球場へ来るからです。凧を買い直すからです。仲間に笑われても、監督を辞めないからです。

これは、「努力すれば、いつか必ず勝てる」という成功物語ではありません。

彼は、次も負けるかもしれません。

たぶん、かなりの確率で負けます。

それでも、生きることをやめないのです。

ヨブに与えられたのは、説明ではなかった

ヨブ記の終盤で、神はついにヨブへ語りかけます。

ところが神は、「あなたが苦しんだ理由はこれです」と説明しません。

神は嵐の中から現れ、天地創造と世界の広さを語ります。ヨブが受け取ったのは、苦難の詳しい解説書ではなく、神ご自身との出会いでした。

これで全部納得できるか、と言われれば、正直、簡単ではありません。

私も牧師として、苦しんでいる人に「神様にはご計画があります」と言えば話が片づくとは思いません。それは間違いとは限りませんが、痛みの真ん中で聞けば、ヨブの友人の言葉とほとんど同じ音に聞こえることがあります。

聖書が示す究極の答えは、苦難についての説明ではなく、苦難の中へ来られたイエス・キリストです。

キリストは安全な天から、「苦しみには意味があります」と解説されたのではありません。裏切られ、嘲られ、十字架につけられ、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。

神は、苦しむ人に遠くから答えを投げたのではなく、その隣に来られたのです。

ボールを蹴れなくても、走り出してよい

チャーリー・ブラウンは、ヨブそのものではありません。

ヨブが失ったものと、フットボールを蹴り損ねることを同じ重さで語ることはできません。ヨブの苦しみは、かわいい失敗談ではありません。

それでも、二人には共通点があります。

答えが出ないまま、物語の中にとどまったことです。

ヨブは神に問い続けました。チャーリー・ブラウンは、また走り出しました。

信仰とは、何が起きても落ち込まないことではありません。

すべての理由を説明できることでもありません。

落ち込み、嘆き、ときには神に食ってかかりながら、それでも神との会話をやめないことです。

そして教会とは、人生に勝った人だけが集まる祝勝会ではないのでしょう。

何度も転び、ボールを蹴れず、凧が木に引っかかっても、それでも今日を生きている人に、「あなたは敗者ではない」と告げる場所です。

チャーリー・ブラウンが愛され続けているのは、最後に勝ったからではありません。

負け続けても、彼が物語から消されなかったからです。

福音もまた、失敗した者を物語の外へ追い出さない神の知らせなのです。

最後に

今後も「ピーナッツ」をはじめ、マンガ、アニメやゲーム、サブカルをテーマにして本物の牧師がいろいろ神学(考察)していこうと思います。感想、コメント、「スキ(いいね)」、フォローくださると励みになります。また、神学(考察)してほしい、アニメやゲームがありましたら、コメントください。また先日から全記事無料化しています。活動の継続の為に皆さんからのカンパをよろしくお願いします。

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