スヌーピーを神学してみた(2)―聖書を教えた漫画家は、なぜ教会から離れたのか

サブカルを神学してみた

単純化できない信仰者チャールズ・M・シュルツ

スヌーピーと聞いて、まず「キリスト教」を思い浮かべる人は、たぶん少ないでしょう。

白い犬。赤い屋根。黄色い鳥。マグカップに文房具。かわいくて、少しとぼけていて、ときどき妙に人生の核心を突いてくる。

けれども、その犬を生み出したチャールズ・M・シュルツは、一時期、教会で聖書を教えていた人でした。

それだけ聞けば、話は簡単です。

「なるほど。『ピーナッツ』は、敬虔なクリスチャン漫画家が描いたキリスト教漫画だったのか」

しかし、調べていくと、そんなにきれいにはまとまりません。

彼は教会に熱心に通い、聖書研究を導き、テレビ局が難色を示してもクリスマス物語から聖書を外しませんでした。その一方で、晩年には教会から距離を置き、自分を「世俗的ヒューマニスト」と呼んでもいます。

熱心な信仰者だったのか。信仰を捨てた人だったのか。

たぶん、その二択で人間を理解しようとすること自体が、少し乱暴なのです。

戦争から帰ってきて、教会へ向かった

第二次世界大戦から帰還した若きシュルツは、ミネソタ州のチャーチ・オブ・ゴッドという教会に深く関わるようになります。青年会に参加し、聖書を学び、ときには説教までしました(本人へのインタビュー)。

もっとも、後年の本人は、その説教を「かなりひどい説教だった」と振り返っています。ここが、いかにもシュルツらしい。信仰歴を勲章のように磨いて見せるのではなく、自分の未熟さを笑ってしまうのです。

戦争を生き延びたことへの感謝。死を身近に見た経験。そして、帰る場所を求める心。シュルツの信仰は、何も悩みのない人が人生に飾りつけたアクセサリーではありませんでした。

人間はなぜ生きるのか。善い人が、なぜ苦しむのか。神は沈黙しているように見えるとき、どこにいるのか。

のちの『ピーナッツ』に何度も現れる問いは、最初から「かわいい漫画のネタ」だったのではなく、彼自身が抱えていた問いだったのでしょう。

シュルツ先生の聖書研究会

1958年、家族とカリフォルニアへ移ったシュルツは、セバストポルのメソジスト教会でも聖書研究を教えました(チャールズ・M・シュルツ美術館)。

とはいえ、黒板の前に立って正解を配る先生ではありません。

その日の聖書箇所を選び、「これはどういう意味だと思いますか」と参加者に尋ねる。自分が延々と話すより、みんなで考え、言葉を交わす。シュルツ夫人ジーンの回想によれば、それが彼の「教える」方法でした。

考えてみれば、『ピーナッツ』にも立派な説教壇はありません。

あるのは、子どもたちが肘をついて話す低い塀です。

そこでチャーリー・ブラウンは失敗を語り、ライナスは聖書を持ち出し、ルーシーは身も蓋もないことを言う。誰か一人が完璧な答えを握っているわけではありません。会話は、ときどき噛み合わないまま終わります。

けれども、問いは残る。

シュルツにとって神学とは、正解を大声で言って会話を終わらせることではなく、問いを囲んでみんなで座ることだったのかもしれません。

「私たちがやらなければ、誰がやる?」

その信仰が、最もはっきり形になったのが、1965年のテレビ作品『チャーリー・ブラウンのクリスマス』です。

クリスマス劇が商売や騒ぎに飲み込まれていく中で、チャーリー・ブラウンは尋ねます。

クリスマスの本当の意味を知っている人はいないのか。

そこでライナスが語るのが、ルカによる福音書2章の、羊飼いたちに救い主の誕生が告げられる場面です。

制作側には、子ども向け番組で聖書をそのまま読むことへの不安がありました。それでもシュルツは譲らず、「私たちがやらなければ、誰がやる?」と押し切ったと伝えられています(National Catholic Reporter)。

これは、作品に宗教的な小ネタを忍ばせた、という程度の話ではありません。

研究者スティーヴン・J・リンドは、約1万8千本の新聞漫画を調べ、そのうち560本以上に宗教的・霊的・神学的な言及があると数えました(研究論文)。

聖書は『ピーナッツ』にたまたま紛れ込んだのではなく、作品世界を流れる地下水のようなものだったのです。

しかし、ここから話はややこしくなります。

では、なぜ教会から離れたのか

さて、ここでタイトルの問いに戻りましょう。

聖書を教えるほど熱心だったシュルツは、なぜ教会から離れたのでしょうか。

最初に正直に言っておくと、シュルツ本人が「あの出来事が原因で教会を辞めた」と明言した記録は、少なくとも私が確認した資料にはありません。

教会で大きな事件に巻き込まれたとか、牧師と決定的な喧嘩をしたとか、そういう分かりやすい話ではないのです。

どうやら彼は、ある日突然、教会を飛び出したのではありません。

少しずつ離れていきました。

その最初の転機は、1958年のカリフォルニア移住だったと考えられます。

ミネソタにいたころのシュルツには、チャーチ・オブ・ゴッドの青年会と聖書研究会がありました。信仰は、彼個人の頭の中だけにあったのではなく、仲間と一緒に学ぶ生活の一部でした。

ところがカリフォルニアへ移ると、それまで所属していた教会から物理的に離れます。セバストポルのメソジスト教会で聖書研究を教えはしましたが、以前の教会生活をそのまま再建したわけではなかったようです(チャールズ・M・シュルツ美術館)。

信仰を失ったから教会へ行かなくなった、というより、まず教会共同体から離れ、その後、信仰の形も少しずつ変化していったのでしょう。

第二に、シュルツ自身の神学が、教会の伝統的な教理から遠ざかっていきました。

彼は後年、自分について「正統的な信仰者ではないし、ますますそうではなくなっている」と語っています。ロバート・ショートも、シュルツの中には保守的な信仰と同時に、もともと人間中心的で自由主義的な傾向があったと証言しています(The New Yorker)。

またシュルツは、聖書を引用しただけで怒ったり喜んだりするキリスト教原理主義者について、「あまりにも狭量だ」と不満を述べています(本人へのインタビュー)。

彼は神や聖書そのものよりも、神について「こう考えなければならない」と枠をはめる教会に、次第に居場所を感じられなくなったのかもしれません。

そして第三に、私生活の混乱がありました。

1970年代初め、シュルツの最初の結婚は破綻へ向かい、彼自身も婚外関係を経験しました。やがて離婚し、再婚します。

研究者スティーヴン・J・リンドは、結婚が崩れ、自分自身も聖書の教えに反する関係の中にいた時期に、シュルツは聖書研究を導くことへ居心地の悪さを覚えたのではないか、と推測しています(リンドの研究を紹介する書評)。

もちろん、これは本人が明言した理由ではありません。

だから「不倫したので教会を辞めた」と単純化するべきではないでしょう。

けれども、教会から物理的に離れたこと、教理への考え方が変わったこと、そして私生活と聖書教師としての立場との間に矛盾を抱えたこと。その三つが重なり、彼を少しずつ教会の外へ押し出したと見ることはできます。

つまり、シュルツが離れたのは、まず聖書からではなく、制度としての教会からでした。

そして、教会から離れたあとも、彼は聖書を捨てきれませんでした。

むしろ『ピーナッツ』の中で、教会の外から神に問い続けたのです。

聖書そのものが、疑う人を隠していない

そもそも聖書は、信仰者を一点の曇りもない人として描いていません。

ヤコブは神と格闘します。ヨブは、なぜ自分が苦しむのかと神に食い下がります。詩編には、「いつまでですか」「なぜお見捨てになったのですか」という叫びが、祈りとして収められています。

疑いがあることと、何も信じていないことは同じではありません。

もちろん、疑えば疑うほど立派なのでもありません。疑いを格好よく飾る必要はない。けれども、疑問を口にした瞬間に信仰共同体から退場させられるなら、ヨブも詩編の作者も、かなり居場所を失ってしまいます。

シュルツは、薄っぺらな宗教漫画を嫌いました。善い子が祈ったら全部うまくいきました、イエスさまを信じたら悩みが消えました、という話に、人間の現実は収まらないと知っていたからでしょう。

チャーリー・ブラウンは、信じた次のコマでも失敗します。

ライナスは聖書を語りながら、安心毛布を手放せません。

ルーシーは五セントで人生相談をしながら、自分の怒りを持て余します。

そこにいるのは、信仰によって「完成した人」ではなく、不安と矛盾を抱えたまま、それでも誰かと話そうとする人たちです。

有名人を、信仰の広告塔にしない

教会はときどき、有名人がクリスチャンだと知ると、急いでこちら側の広告塔にしたくなります。

そして、その人の信仰が揺れたり、教会から離れたりすると、今度は「あの人は最初から本物ではなかった」と片づけたくなる。

どちらも、一人の人間を自分たちに都合のよい物語へ押し込めています。

シュルツを「敬虔なキリスト教漫画家」とだけ呼ぶのも、「晩年は無神論者になった」とだけ呼ぶのも、彼の歩みを薄くします。

彼は聖書を教えました。福音書をテレビに残しました。教会から離れました。それでも聖書の問いから、簡単には離れられませんでした。

その全部が、チャールズ・シュルツという一人の人の歩みです。

そして教会に必要なのは、きれいな信仰歴を持つ人だけを並べることではないのでしょう。

信じたい人。疑っている人。傷ついて教会の扉から遠ざかった人。それでも、神について考えることをやめられない人。

そういう人たちが、低い塀に肘をついて、もう一度話せる場所であること。

『ピーナッツ』には、神学の最終回答は描かれていません。

けれども、問いを抱えた人を漫画の外へ追い出さない。

もしかすると、その姿勢そのものが、シュルツの作品に残った、最も深い信仰の痕跡なのかもしれません。

最後に

今後も「ピーナッツ」をはじめ、マンガ、アニメやゲーム、サブカルをテーマにして本物の牧師がいろいろ神学(考察)していこうと思います。感想、コメント、「スキ(いいね)」、フォローくださると励みになります。また、神学(考察)してほしい、アニメやゲームがありましたら、コメントください。また先日から全記事無料化しています。活動の継続の為に皆さんからのカンパをよろしくお願いします。

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