第一コリント書10章1~13節「神は乗り越えられない試練を与えない?」

説教

第一コリント書10章1~13節「神は乗り越えられない試練を与えない?」

日本のあるフィギアスケートや、水泳のオリンピック選手が「神は乗り越えられない試練を与えない」というのを座右の銘にしておられました。10年ほど前のある有名なドラマでも出てきた言葉でその影響もあるかもしれません。本日のテキスト第一コリント10章13節と酷似しています。ただこのことば「だから、どんな試練にも頑張って立ち向かえ」という意味合いで誤用されることが多いのです。

そうなってしまうと、本当に苦境にたたされている信仰者に対して、「今の苦境を乗り越えられないのは自分の頑張りが足りないからだ」というメッセージと受け取られかねず、かえって窮状に立つ人を追い込んでしまいかねないので注意が必要です。このみ言葉で「試練」と訳されているギリシャ語の単語は「誘惑」とも訳することのできる言葉であり、信仰を揺さぶってくるもの全般を指します。であれば、誘惑に関してはそれに正面から突っ込み、罠にはまるのは得策ではなく、避けることで「戦わずしてやり過ごす」ことさえも、この13節は教えているんです。同節後半には
「逃れる道をも備えてくださいます。」とはっきり書いています。

私は聖書のことばはある一部分だけを切り取ってつまみ食いするのではなくて、かねてから文脈(コンテキスト)から正しい文意を読み取ってほしいと申し上げていますが、もっといえば、10章前半の文脈では旧約聖書の出エジプト記にでてくるイスラエルの民と新約聖書のクリスチャンとの対比を行っています。そのなかで、外形的に信仰者の共同体の中に入っていることになっても、内実を伴わないならば無残に屍を晒すとパウロは警告しています。この内実とは信仰者個人の努力、頑張りというよりもキリストへの信頼を指しています。若干厳しい物言いに聞こえるのも、さらに大きく文脈をみるとコリント第一8章9章で「知識のある信仰の強い人」への偶像礼拝に対する警告を行っているので、「知識もなく、信仰も弱く簡単に妥協してキリストへの信頼をかなぐり捨てて、信仰を持つ以前に状態に自ら戻りたがってしまう人」への警告をすることでバランスを取り、また、これら、信仰の弱い人に対して、キリストに信頼することで、決して失望させられることがないということを自ら経験して知ってほしいというパウロの信仰者としての親心が現れています。

※サムネイルはティントレット画「アルシノエ姫の救出」

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