第一コリント14章1~25節「わかりみが深いメラビアン」

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会衆

第一コリント14章1~25節「わかりみが深いメラビアン」

異言とは恍惚状態に陥り、聴衆にとって理解不能な外国語で語りだしたり、どこの言語でもない発声をともなう現象で、ペンテコステの時には同時多発的にエルサレムの教会でおこり、それが聖霊降臨のしるしとされました。聖霊の働きが顕著にしるしとしておきていたであろうコリント教会をふくめ初代教会では礼拝の中でも行われていたようです。対して、「預言」と聞くとこれも怪しいように感じますが、英語の大学教授professorの語源になった言葉です。初代教会は新約聖書が成立する前から礼拝をしており、礼拝の中で神の意志が解き明かされなければならなかったわけで、預言者が神託を受け、取り次ぐ意味合いも大きかったのです。現代のキリスト教会のプログラムでいえば、「説教」「聖書講解」が一番近いものにあたるでしょう。パウロは、自身も異言を語るものであると断っておきながらも礼拝の中では言語として理解できる預言(説教)がなによりも重んじられるべきだと忠告しています。

説教題にあげた「メラビアンの法則」とは言語、聴覚、視覚から与えられる情報がそれぞれ異なった場合、それぞれの影響度合いが7%、38%、55%だとした心理法則のことです。あくまで情報がそれぞれ異なった場合に限ったことですが、私たちの理解はいかに言語情報が視覚、聴覚からの情報に左右されやすいということを警鐘を鳴らしています。

そして、最後に「わかりみ」とはわかるという動詞を名詞化させて「わかりみしかない」「わかりみが深い」などといって、あいてへの理解、共感、同意などに用いる若者言葉、俗語です。世代間で、わかる、理解するという言葉自体がわからなくなっていることが皮肉にも思えますがし、この言葉じたい、理性で理解することよりも感性に重きをおいているようにおもえ、ふわっとした共通意識をインターネットの言語空間で共有したがる世相にマッチした言葉だと思います。

招きの言葉ネヘミヤ記8章8節

彼らは神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した。

は今から約2500年前の神殿再建時の礼拝の様子をしるしたものです。ネヘミヤ記8章をよみましょう。8章2節、3節、8節、12節に言葉を聞いて「理解する」という言葉がでてきます。当時の人がいかに理解を大事にしたかが「わかりみしなかい」でしょう。

絢爛豪華な礼拝所、荘厳な、祝詞や読経などのムードに飲まれて圧倒される…それも宗教心をくすぐるのかもしれませんが、キリスト教において聖書が読まれ、その意味を聴衆が理解すること、わかること、それが実は礼拝行為とされ重んじられているのです。

幼子でもわかる、わかりやすい福音を神様が用意してくださったことに今一度感謝しましょう。

私たちの理解する福音を凝縮したコリント第一15章前半を今一度、精読しながら

※サムネイル画像はイメージです。

 

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