自由で開かれたインド太平洋 を神学してみた
1 「海は誰のものか」という古くて新しい問い
「海は誰のものか」。
この問いは、古いようでいて、実はきわめて現代的な問いです。台湾海峡、南シナ海、東シナ海。そして少し視野を西へ移せば、イランとアラビア半島の間にあるホルムズ海峡。ニュースを見れば、そこでは軍艦、海警船、漁船、人工島、ブイ、空母、航行の自由作戦といった言葉が飛び交っています。
今日、日本を含む多くの国々は「自由で開かれたインド太平洋」という言葉を用いています。けれども、その根底にある問いは意外なほど単純です。
海は、力ある国が囲い込んでよいものなのか。
それとも、国々の共有の通路として開かれているべきものなのか。
この問いに、近代の初めに大きな答えを出した人物が、フーゴー・グロティウスです。日本では「国際法の父」と呼ばれることが多い人物です。
彼は単なる法律家ではありません。オランダの人文主義者であり、法学者であり、外交官であり、そして神学者でもありました。しかも彼はプロテスタント教徒でした。その彼が、カトリック帝国による海の独占を批判し、「海は自由である」と主張したのです。
今から400年以上前のグロティウスの叫びは、台湾海峡、南シナ海、ホルムズ海峡を見つめる私たちにも、なお鋭く響いています。
2 カトリック帝国が海を分け合った時代
当時の背景には、スペインとポルトガルによる海の独占がありました。
大航海時代、カトリックの両大国は、教皇の権威や条約を背景に、世界の海と植民地交易を分け合うようにして支配していました。海は開かれた道ではなく、帝国の私道のように扱われていたのです。
「この海は我々のものだ」
「この航路は我々の支配下にある」
「他国は勝手に通るな、交易するな」
そういう発想です。
もちろん現代の感覚から見れば、かなり乱暴です。しかし、当時の世界では、強い国が海を囲い込み、弱い国や新興国を排除することが現実に行われていました。
そこへ、プロテスタントのオランダ人であるグロティウスが現れます。
3 グロティウスの叫び――「海は自由である」
グロティウスの核心は、実に明快です。
海は土地のように囲い込むことができない。
海は空気のように、すべての民に開かれている。
ある国が「ここから先はわが帝国の海だ」と宣言し、他国の航行や交易を妨げるなら、それは自然法にも諸国民の法にも反する。
これが『自由海論』、ラテン語で『マーレ・リベルム』の思想です。
もちろん、グロティウスも完全に中立無私の天使だったわけではありません。背後には、アジア貿易に参入しようとするオランダの国益もありました。オランダ東インド会社の利益もありました。
しかし、歴史とは不思議なものです。商業上の利害から出発した議論が、やがて帝国の独占を超えて、国際社会全体に関わる原理へと成長していくことがあります。
グロティウスの「海は自由である」という言葉は、単にオランダ商人のためだけの理屈にとどまりませんでした。それは、強国による海の私物化に対する、近代国際法の出発点の一つとなったのです。
4 神学者グロティウスが見ていたもの
ここで重要なのは、グロティウスが単なる「反カトリック感情」でこの議論をしたのではないということです。
彼はプロテスタントでした。しかし、彼の議論の強みは、特定の教派の利益を超えて、「神が造られた世界において、人間の権力はどこまで許されるのか」という普遍的な問いに向かった点にあります。
神学者である彼にとって、法とは単に王や国家が勝手に作る命令ではありませんでした。人間の上には神があり、国家の上には正義がある。
だからこそ、王であれ、皇帝であれ、教皇であれ、巨大帝国であれ、「力があるから支配してよい」とは言えないのです。
宗教改革は、教会の権威であっても、聖書と良心の前に検証されなければならないと訴えました。同じように、国際社会においても、強国の主張であっても、法と正義の前に検証されなければなりません。
この点で、グロティウスの航行の自由論は、実にプロテスタント的です。
5 自由で開かれたインド太平洋で、同じ問いがよみがえる
このグロティウスの問いは、今日のインド太平洋で再び切実になっています。
南シナ海では、中国がいわゆる「九段線」によって広範な海域への権利を主張してきました。人工島を造成し、軍事拠点化を進め、周辺国の漁船や船舶に圧力をかけています。
台湾海峡でも同じ問題が見えます。
台湾海峡は、台湾と中国大陸の間にあるだけではありません。日本、韓国、フィリピン、東南アジア、さらには世界の物流にとっても重要な通路です。ここが一国の力によって事実上閉ざされるなら、それは台湾だけの問題ではありません。日本にとっても、世界にとっても重大な問題です。
中国は、台湾海峡や南シナ海における他国の艦船通過に対して、しばしば強く反発します。「航行の自由を口実に中国の主権と安全を脅かすな」という理屈です。
もちろん、中国にも言い分があります。安全保障の不安もあるでしょう。アメリカの軍事的プレゼンスに対する警戒もあるでしょう。ですから、単純に「中国だけが悪で、西側は常に善」と言えばよいわけではありません。
しかし、それでもなお、原理は大切です。
自由で開かれたインド太平洋とは、特定の国を包囲するためのスローガンであってはなりません。むしろ、それは「海は大国の私道ではない」という、きわめて素朴で、しかし重い原則の確認であるべきです。
この問題は、東アジアだけの話でもありません。ホルムズ海峡をめぐるイランの動きも、同じ問いを私たちに突きつけています。ホルムズ海峡は、世界の石油・LNG輸送にとって極めて重要な海の急所です。実際、日本政府を含む複数国は、イランに対し、商業船舶への脅威や攻撃、海峡封鎖の試みを直ちにやめるよう求め、「航行の自由」は国際法の基本原則であると表明しています。
つまり、台湾海峡、南シナ海、ホルムズ海峡は、場所も当事者も違います。しかし共通しているのは、「狭い海の通り道を、特定の国家が力で押さえ込んでよいのか」という問いです。ここでもグロティウスの『自由海論』は、古びた思想ではなく、今も生きている問いかけなのです。
6 「航行の自由」は日本の命綱でもある
日本は島国です。
石油も、食料も、多くの物資も、海を通って入ってきます。台湾海峡や南シナ海の航行の自由が失われるなら、それは遠い国際政治の話ではありません。ましてホルムズ海峡は、エネルギーを海外に大きく依存する日本にとって、まさに命綱の一つです。
コンビニに商品が並ぶこと。
ガソリンが手に入ること。
電気が使えること。
教会に人が集まり、日常の生活が守られること。
その背後には、海の道が開かれているという前提があります。
つまり、航行の自由とは、軍艦だけの話ではありません。商船の話であり、物流の話であり、私たちの食卓の話です。
だから、「自由で開かれたインド太平洋」は、遠い外交文書の言葉ではありません。台湾海峡、南シナ海、ホルムズ海峡の自由は、大阪のスーパーにも、教会の電気代にも、子どもたちの給食にもつながっている現実なのです。
7 聖書は国家を神にしない
聖書は、国家権力そのものを否定してはいません。ローマ書13章は、権威の秩序について語ります。
しかし同時に、聖書は権力を神格化しません。
バベルの塔は、人間が自らの名を上げ、天に届く権力を築こうとした物語でした。預言者たちは、王たちが正義を曲げ、貧しい者を踏みにじるとき、神の言葉によってそれを告発しました。
国家は必要です。
国境も必要です。
安全保障も必要です。
しかし、国家は神ではありません。
国境があるからといって、海まで絶対的に囲い込み、他者の道を奪う権利はありません。力ある国が「ここはわが海だ」と叫ぶとき、キリスト者はその声をそのままうのみにしてよいのでしょうか。
むしろ、問うべきです。
その主張は、正義にかなっているのか。
弱い国々の道を奪っていないか。
神の前に、人間の権力を絶対化していないか。
8 平和とは、強者に沈黙することではない
キリスト者は平和を祈ります。それは当然です。
しかし、平和とは、ただ戦争が起きていない状態のことではありません。強い国が弱い国を脅し、弱い国が黙らされ、国際社会が見て見ぬふりをする。それを「平和」と呼ぶことはできません。
それは平和ではなく、沈黙です。
秩序ではなく、屈服です。
戦争を望まないことは当然です。しかし、戦争を避けたいあまり、力による現状変更や海の囲い込みに沈黙するなら、それは平和主義ではなく、強者への迎合になってしまいます。
本当の平和とは、強い者の手も法によって縛られ、弱い者の道も守られる状態です。
ここにこそ、国際法の意味があります。国際法は完全ではありません。大国に破られることもあります。偽善的に用いられることもあります。
それでもなお、法がなければ、最後に残るのは力だけです。そして力だけの世界では、小さな国、小さな民、小さな声から順に踏みにじられていきます。
9 グロティウスの叫びを、今聞き直す
400年以上前、グロティウスはカトリック帝国の海洋独占に対して、「海は自由である」と語りました。
今日、私たちはその言葉を、台湾海峡、南シナ海、そしてホルムズ海峡を見つめながら、もう一度聞き直す必要があります。
海は、力ある国の私有地ではありません。
海は、皇帝のものでも、党のものでも、軍のものでもありません。
神が造られた世界において、諸国民が互いに行き来し、交易し、出会い、時には福音さえ運ばれていった道です。
その海を閉ざしてはならない。
自由で開かれた海を守らなければならない。
それは単なる国際法の問題ではありません。
神の前で、人間の権力をどこまで相対化できるかという、神学の問題でもあるのです。
グロティウスの叫びは、過去の声ではありません。
自由で開かれたインド太平洋を考える私たちの耳元で、今もなお響いている声なのです。

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