国旗は罰し、十字架は赦す 国旗損壊罪を神学してみた

教会と国家

国家は国旗を守り、キリスト教は対話の扉を閉ざしません

なんとも刺激的な問題ですが、現代日本とキリスト教世界の違いを考えるには、国旗損壊罪ほど象徴的なテーマもないかもしれません。

2026年6月、自民党、日本維新の会、国民民主党、参政党は、国旗損壊罪を創設する法案を共同で衆議院に提出しました。法案では、対象となる国旗を「国旗として用いられていると社会通念上認められる有体物」とし、著しく不快または嫌悪の情を催させる方法で、公然と損壊、除去、汚損した者に対し、2年以下の拘禁刑または20万円以下の罰金を科すとされています。

つまり、この法案が成立すれば、本物の日の丸を尿瓶に入れて尿に浸し、それを公然と見せるような行為は、国旗の「汚損」と評価され、処罰対象になる可能性が高いと考えられます。

一方で、キリスト教世界には、これと非常に対照的な出来事があります。アメリカの写真家アンドレス・セラーノは、1987年に《Piss Christ》という作品を発表しました。これは、プラスチック製の磔刑像を尿に浸して撮影した写真作品です。多くのキリスト者から強い批判を受けた作品ですが、そのセラーノは2023年6月、バチカンで教皇フランシスコと面会した約200人の芸術家の一人でした。

もちろん、これは「磔刑像を尿に浸したから表彰された」という話ではありません。バチカン美術館の近現代美術コレクションに関わる芸術家との集いに、問題作を生んだセラーノも含まれていた、ということです。それでも、この事実は象徴的です。

国旗を汚せば、国家は罰をもって応答します。
十字架を汚した芸術家に対して、教会は少なくとも対話の場を完全には閉ざしませんでした。

ここに、「国旗は罰し、十字架は赦す」という、本稿の主題が浮かび上がってきます。

明治42年大審院の「おちょこ放尿事件」

ここで、日本の法感覚を考えるうえで、ぜひ触れておきたい有名判例があります。俗に「おちょこ放尿事件」などと呼ばれることがありますが、正確には、明治42年4月16日の大審院判決です。

この事件では、被告人が飲食店で、徳利一本とすき焼き鍋一個に放尿し、これを汚損して廃物にしたとされました。問題は、徳利や鍋は物理的には壊れていない、という点でした。洗えば形は元に戻ります。では、それでも器物損壊になるのか、ということが争われたのです。

大審院は、器物の損壊とは、物を物理的に壊す場合だけではなく、事実上または感情上、その物を再び本来の目的に使えない状態にする場合も含む、と判断しました。

これは非常に重要です。

徳利やおちょこや鍋は、飲食のために使うものです。たとえ高温殺菌すれば衛生上は使えるとしても、「これ、前に誰かが放尿した器です」と聞かされて、それで日本酒を飲みたい人はまずいません。物理的には壊れていなくても、飲食器としての信頼、清潔感、社会的な使用価値が失われているのです。

つまり法律は、すでに明治の時代から、「尿による汚損」は単なるいたずらでは済まない場合がある、と見ていたわけです。

そう考えると、国旗を尿瓶に入れて尿に浸す行為が、国旗損壊罪の「汚損」に当たるという理解は、法律論としてはそれほど突飛ではありません。食器ですら、尿に浸されれば本来の用途を失います。まして国旗は、国家の象徴として掲げられるものです。尿に浸されれば、国旗としての尊厳ある掲揚や表示が困難になる、と評価されるでしょう。

しかし、十字架はもっと深いところで汚されたしるしです

しかし、ここからがキリスト教の不思議なところです。

キリスト者にとって、十字架は単なる宗教グッズではありません。そこには、神の子イエス・キリストが人間の罪を背負い、血を流し、命を捨てられた救いの出来事が刻まれています。ですから、磔刑像を尿に浸す表現に、信仰者が強い嫌悪感を持つのは当然です。

けれども、キリスト教の中心にある十字架そのものが、もともとは「聖なる飾り」ではありませんでした。十字架刑は、古代ローマにおける最も恥ずべき処刑方法の一つでした。イエスは、宗教画の中の美しい殉教者として死なれたのではありません。裸にされ、唾をかけられ、鞭打たれ、茨の冠をかぶせられ、「ユダヤ人の王」と嘲られました。

つまり、キリスト教の中心には、最初から「神が汚される」「神が侮辱される」という出来事があります。

「聖なる方」が、汚れた者として扱われました。
「王の王」が、裸でさらし者にされました。
「神の子」が、罪人として処刑されました。

それが十字架です。

だからキリスト教は、侮辱に対して、国家のように刑罰を求めることを信仰の中心には置きません。キリスト教の神は、侮辱されたことのない無傷の神ではありません。むしろ、侮辱され、唾をかけられ、釘打たれ、それでも「父よ、彼らをお赦しください」と祈られた神です。

バチカンはセラーノを肯定したのでしょうか

ここで誤解してはいけません。バチカンがセラーノを含む芸術家たちと会ったからといって、《Piss Christ》を公式に称賛したという意味ではありません。信仰者の痛みを無視したということでもありません。

教皇フランシスコは、その集いで、教会と芸術家の関係を深い友情として語り、芸術は人間存在の矛盾や悲劇的側面にも向き合うものだと述べています。また、芸術も信仰も現実をそのままにはせず、人を変え、動かし、目覚めさせるものだと語っています。

つまり、バチカンは問題ある表現を無条件に正当化したのではありません。むしろ、問題ある表現をした芸術家であっても、その人間を対話の外に永久追放しなかったのです。

ここに、キリスト教の度量があります。

キリスト教は、罪を罪と呼びます。冒涜を冒涜と呼ぶこともあります。しかし、それでもなお、その人との対話を諦めません。なぜなら、福音とは、正しい人だけを招くものではなく、罪人を招くものだからです。

キリスト教の赦しは無力さではありません

キリスト教は、よく「何を言っても怒らない宗教」のように扱われます。十字架も、修道女も、悪魔祓いも、しばしば映画や漫画やギャグの素材になります。

しかし、キリスト者が傷ついていないわけではありません。十字架を侮辱されれば胸が痛みます。キリストの名が乱暴に扱われれば悲しみます。

それでも、傷つくことと、すぐに処罰を求めることは同じではありません。

キリスト教の赦しは、「どうでもいい」という無関心ではありません。信仰の中心が侮辱されてもなお、その相手を人間として見続ける力です。

本当に弱い権威は、すぐに罰します。
本当に不安な権威は、処罰によって自らを守ろうとします。
本当に自信のない神は、侮辱に耐えられません。

しかし、キリストは違います。

キリストは侮辱に耐えました。
キリストは嘲笑の中で沈黙しました。
キリストは殺す者のために祈りました。

その方を主と仰ぐキリスト教は、侮辱に対して一拍置くことができます。怒りの前に祈りを置き、断罪の前に対話を置き、刑罰の前に赦しの可能性を置くのです。

これが「国旗は罰し、十字架は赦す」ということです。

国旗と十字架の決定的な違い

国旗は、国家の尊厳を表します。
十字架は、神の愛を表します。

国旗は、汚されれば国家が罰します。
十字架は、汚れた者のために立てられました。

国旗は、傷つけられれば法律が動きます。
十字架は、傷つけられたその場所から人を救います。

もちろん、だからといってキリスト教の象徴を侮辱してよいわけではありません。相手が殴り返さないからといって、殴ってよいわけではありません。赦しを語る宗教だからといって、冒涜してよい理由にはなりません。

しかし、それでもキリスト教は、侮辱されたときに、まず相手を滅ぼそうとはしません。なぜなら、十字架とは、神が侮辱する者を滅ぼすためではなく、救うために来られた出来事だからです。

国家は、自分の旗を守るために罪人を罰します。
キリストは、罪人を救うために、自ら十字架にかかられました。

国旗は罰します。
しかし、十字架は赦します。

ここに、キリスト教という宗教の底知れない度量の深さがあります。

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