チ。原作10話を神学してみた。好奇心は罪なのか?――バデーニの片目と「第一J書」

チ。原作10話を神学してみた。好奇心は罪なのか?――バデーニの片目と「第一J書」 サブカルを神学してみた

原作9話までのネタバレを含みます。また、原作の話数に合わせて神学(考察)していきますので、以下の過去作をまだご覧になっていない方はご覧ください。



チ。地球の運動について を神学してみた。|サブカル好きの牧師|note


チ。地球の運動についてを原作に基づいて、週2回くらいのペースで神学(考察)していく予定です。


note.com

バデーニの過去と「第一J書」という謎

原作第10話、第二集116ページあたりで、バデーニの過去が語られます。

第二章の重要人物である修道士バデーニ。
彼は片目に傷を負っています。

というより、片目を焼かれています。

なぜ、そんなことになったのでしょうか。

人を殺したからでしょうか。
教会のお金を盗んだからでしょうか。
異端の教えを広めて、民衆を扇動したからでしょうか。

そうではありません。

作中の説明を見るかぎり、バデーニはただ「好奇心を持った」ために罰せられたように描かれます。

そして、その理由として出てくるのが「第一J書」です。

「好奇心で目を焼く」という違和感

この「第一J書」という言葉、もちろん『チ。』の世界では、現実のキリスト教や聖書の名前がそのまま出てくるわけではありません。作中では「C教」という架空の宗教名が用いられています。ですから、「第一J書」も、現実の聖書を少しぼかした表現でしょう。

ただ、このぼかし方が絶妙なのです。

普通に読めば、この場面はかなり突拍子もありません。

いやいやいやいや。
好奇心を持っただけで目を焼くって何やねん。
いくらなんでもC教、無茶苦茶すぎるやろ。

そう思うのが普通です。

しかし、ここで作中の「第一J書」に対応すると思われる聖書箇所を読むと、この「突拍子もない理由」が、少なくとも作品世界の中ではどういう理屈で成り立っているのか、少し見えてきます。

なぜ「目」が罰せられるのか

なぜ「好奇心」が罪になるのか。
なぜ罰せられるのが「目」なのか。
なぜ、バデーニの片目は焼かれなければならなかったのか。

この場面は、単なる残酷描写ではありません。

むしろ、聖書の言葉が伏せられているからこそ、一見すると意味不明に見える。けれども、その元ネタらしき箇所を知ると、「なるほど、だから目なのか」と見えてくる場面なのです。

ここから先は、聖書ネタの答え合わせです。

「第一J書」の正体――第一ヨハネ2章16節

結論から言うと、作中の「第一J書」は、おそらく第一ヨハネの手紙2章16節を指していると思われます。

なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。

新共同訳聖書 第一ヨハネの手紙 2章16節

この箇所には、「世にあるもの」として、三つのものが挙げられます。

肉の欲。
目の欲。
生活のおごり。

ここで重要なのは、真ん中の**「目の欲」**です。

「目の欲」とバデーニの処罰

これを知ると、バデーニが「目を焼かれた」という出来事が、急に聖書的な意味を帯びて見えてきます。

つまり、作中のC教的な理屈は、おそらくこういうことです。

バデーニは、見てはいけないものを見ようとした。
知ってはいけないことを知ろうとした。
禁じられた真理に近づこうとした。
それは「目の欲」である。
だから、その罪を犯した器官である「目」が罰せられた。

まことに分かりやすい。
そして、まことに恐ろしい。

本来の聖書の意味とのズレ

もちろん、第一ヨハネの手紙2章16節は、本来そんなことを言っているわけではありません。

この箇所が戒めているのは、知的好奇心そのものではありません。自然を観察することでも、星を見上げることでも、学問をすることでもありません。

ここで問題にされているのは、神から離れた欲望です。

隣人を人としてではなく、欲望の対象として見る目。
人の持ち物を見て、あれも欲しい、これも欲しいと貪る目。
世界を神の創造としてではなく、自分の支配対象として眺める目。
神を仰ぐのではなく、自分が神のようになろうとする目。

それが「目の欲」です。

好奇心=curiositasという問題

ですから、この聖句は「好奇心を持つな」と言っているわけではありません。

ところが、キリスト教の歴史の中では、この「目の欲」が、より広い意味で語られることがありました。

そこで出てくるのが、ラテン語の curiositas です。

日本語にすれば「好奇心」です。

ただし、ここでいう好奇心は、現代日本語でいう「知的好奇心」のような良い意味ばかりではありません。むしろ、悪しき好奇心です。

見なくてもよいものを見たい。
知らなくてもよいものを知りたい。
暴かなくてもよいものを暴きたい。
他人の秘密をのぞきたい。
神の領域にまで踏み込んで、自分が神のように知りたい。

そういう、節度を失った「知りたい欲望」です。

アウグスティヌスと好奇心

教父アウグスティヌスも、『告白』の中で、この「目の欲」と好奇心を結びつけて論じています。アウグスティヌスにとって、好奇心は単なる勉強熱心ではありませんでした。人間が神から離れ、ただ刺激を求め、ただ新しいものを見たい、ただ自分の知識欲を満たしたいとする危険な誘惑でもあったのです。

C教の論理としての処罰

ここまで来ると、バデーニが目を焼かれた理由が、作品世界の中では少し見えてきます。

彼は「目の欲」に負けた。
見てはいけないものを見ようとした。
知ってはいけないことを知ろうとした。
だから、その罪を犯した器官である「目」が焼かれた。

おそらく、C教側の論理はそういうことでしょう。

聖句がぼかされている意味

ここで面白いのは、原作では聖句そのものがはっきり引用されていないことです。

もし作中に「目の欲」という言葉がそのまま出ていたら、読者はすぐに「ああ、だから目を焼いたのか」と分かったかもしれません。

しかし、そこが「第一J書」という形でぼかされているために、初見ではかなり唐突に見えます。

好奇心を持った。
だから目を焼かれた。

この流れだけを見ると、あまりにも無茶苦茶です。

しかし、その背後に第一ヨハネの手紙2章16節の「目の欲」があると考えると、少なくとも作品世界の中の理屈は見えてきます。

フィクションとしての誇張とリアリティ

つまり、「目を焼く」という出来事は、ただの猟奇的な処罰ではありません。

聖書の言葉が伏せられているから突拍子もなく見える。
しかし、聖句を補うと、その突拍子もなさの中に、恐ろしい論理が見えてくる。

ここが『チ。』の巧いところです。

ただし、ここで大事なのは、『チ。』が実在の中世キリスト教をそのまま再現しているわけではない、という点です。

歴史的事実との距離

実際の中世ヨーロッパで、「好奇心を持ったから目を焼く」という刑罰が、教会の一般的な制度として存在したとは言いにくいと思います。

もちろん、中世に身体刑や拷問がなかったわけではありません。歴史上、目を潰す刑、いわゆる盲目刑も存在しました。特にビザンツ帝国などでは、政治的ライバルや王位継承権を持つ人物を無力化するために、目を潰す処罰が行われたことがあります。

また、異端審問において拷問が用いられた時代があったことも、キリスト教会の歴史の暗部として認めなければなりません。

しかし、「好奇心を持った学者を、第一ヨハネの“目の欲”を理由に目を焼く」というのは、史実そのものというより、かなりフィクションとして強調された描写でしょう。

『チ。』が描く「曲解された聖書」の恐怖

では、『チ。』はデタラメを描いているのでしょうか。

私は、そう単純には言いたくありません。

この作品が描いているのは、史実としての中世キリスト教そのものというより、もし聖書の言葉が最悪の形で曲解されたらどうなるかという悪夢なのだと思います。

「目の欲」という聖書の言葉がある。
それを、「知りたいという心は罪だ」と読む。
さらに、「目で罪を犯したのだから目を罰せよ」と読む。
その結果、人の目を焼く。

これは、聖書の読み方としては最悪です。

けれども、だからこそ怖いのです。

聖書が武器になるとき

聖書の言葉は、本来、人を生かすために与えられています。神を愛し、隣人を愛し、罪から離れ、希望を持って生きるための言葉です。

しかし、その聖書の言葉が、文脈を失い、権力者の手に渡ると、人を縛る道具になることがあります。
人を傷つける武器になることがあります。
問いを封じるための札になることがあります。

「目の欲」という言葉が、「余計なものを見るな」「余計なことを知るな」「余計な問いを立てるな」という命令にすり替わる。

その先にあるのが、バデーニの焼かれた目です。

好奇心は本当に罪なのか

ここで、もう一度確認しておきたいと思います。

知りたい心そのものは罪ではありません。

子どもが「なんで空は青いの?」と聞くこと。
学生が「なぜ星は動くの?」と問うこと。
科学者が自然の法則を探ること。
神学者が聖書の意味を尋ねること。
信徒が「神様、なぜですか」と祈りの中で問うこと。

これらは罪ではありません。

むしろ、人間が神に造られた存在だからこそ与えられた、尊い営みです。

信仰と探究は対立するのか

聖書には、天を見上げる信仰があります。詩編19編は、「天が神の栄光を物語り、大空が御手の業を示す」と歌っています。

だとすれば、天を観察することは、神から離れることとは限りません。星の運行に驚き、世界の秩序を探り、神が造られた世界の不思議に触れようとすることは、むしろ信仰と響き合う場合もあるのです。

好奇心の向かう先

問題は、好奇心そのものではありません。

問題は、その好奇心がどこへ向かうかです。

好奇心が、神の創造への驚きに向かうなら、それは信仰と矛盾しません。
好奇心が、隣人への理解と愛に向かうなら、それは良いものです。
好奇心が、自分の無知を知り、へりくだって学ぶ方向に向かうなら、それは知恵への入口です。

しかし、好奇心が支配欲に変わることがあります。
好奇心が覗き見に変わることがあります。
好奇心が他人を実験台にする冷酷な知識欲に変わることがあります。
好奇心が、「神のように知りたい」という高慢に変わることがあります。

そこから先は、たしかに「目の欲」です。

創世記の誘惑と「知ること」

創世記の蛇の誘惑も、まさにそうでした。

蛇は人間に、「目が開け、神のようになれる」とささやきます。知ること自体が罪なのではありません。神を離れ、神のようになろうとして知ろうとすることが罪なのです。

バデーニは罪人なのか

では、バデーニは本当に罪を犯したのでしょうか。

正直に言えば、バデーニはかなり傲慢な人物です。人を見下します。オクジーを平気で利用しようとします。知識を持つ者としてのプライドも強い。あまり友達にはなりたくないタイプです。

しかし、それでも、彼の「知りたい」という心そのものを罪と決めつけることはできません。

知ることと神の創造

彼が問うているのは、神が造ったかもしれない世界の秩序です。

星はなぜ動くのか。
世界はどういう仕組みなのか。
私たちの見ている世界は、本当に正しいのか。

これは、信仰に反する問いとは限りません。

本来なら、教会こそがこの問いを大切にすべきでした。
なぜなら、神が世界を造られたと信じるなら、その世界を探究することは、神の御業をたどることでもあるからです。

好奇心を焼いてはいけない

もちろん、知識は人を高ぶらせます。
好奇心には謙遜が必要です。
学問には倫理が必要です。
神学には祈りが必要です。

けれども、だからといって、好奇心そのものを焼き殺してはいけないのです。
まして、その人の目を焼くなど、もってのほかです。

現代への問いかけ

今回の原作第10話で『チ。』が描いている怖さは、単なる異端審問の怖さではありません。

それは、曲解された聖書の怖さです。

聖書の一節を切り取って、人を黙らせる。
疑問を持つ人に、「信仰が足りない」と言う。
学ぼうとする人に、「余計なことを考えるな」と言う。
子どもの「なぜ?」を、面倒だからと潰してしまう。

もしそういうことがあるなら、現代の教会もまた、バデーニの目を焼いたC教を笑えません。

問いを恐れない信仰

本当の信仰は、問いを恐れません。

もちろん、信仰には信頼が必要です。何でも疑えばよいというわけではありません。疑い続けることそのものが偉いわけでもありません。

しかし、神は、私たちの問いを恐れるような小さな方ではありません。

聖書に満ちる問い

詩編には、神への問いが山ほど出てきます。

なぜですか。
いつまでですか。
どうして悪人が栄えるのですか。
なぜあなたは沈黙されるのですか。

聖書そのものが、問いに満ちた書物なのです。

ヨブ記などは、その最たるものです。義人ヨブは、苦難の中で神に問い続けます。友人たちは「黙って反省しろ」「お前が悪いに決まっている」と責めます。しかし最後に神が退けるのは、ヨブの問いそのものではなく、むしろ友人たちの浅い決めつけでした。

結論――目を開くということ

問いは罪ではありません。
好奇心は罪ではありません。
知ろうとする心は、神に背くものとは限りません。

問題は、その問いが、神を離れて高慢へ向かうのか。
それとも、神の前でへりくだった探究へ向かうのかです。

『チ。』のバデーニは、決して立派な聖人ではありません。
むしろ、かなり問題のある人間です。

けれども、彼の中にある「知りたい」という火まで、罪として消してしまってよいのでしょうか。

私は、そうは思いません。

神が造られた世界は、知るに値します。
星は、見るに値します。
天は、神の栄光を物語っています。

だから、キリスト者は目を閉じる必要はありません。
むしろ、目を開いてよいのです。

ただし、欲望の目ではなく、信仰の目で。
支配の目ではなく、畏れの目で。
覗き見の目ではなく、神の創造を賛美する目で。

その時、好奇心は邪欲ではなく、神の御業に驚く入口になるのです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました