使徒4章1~22節 どの道も登れば同じ富士の山というけれど

説教

使徒4章 どの道も登れば同じ富士の山と言うけれど

1.どの道も、本当に同じ頂上へ行くのか

「宗教というものは、どれも同じようなものでしょう」――そんなふうに言われることがあります。

「富士山に登る道はいくつもある。しかし、どの道から登っても、最後に着く頂上は同じ。宗教もそれと同じで、仏教から登っても、イスラム教から登っても、キリスト教から登っても、結局は同じ神様、同じ救いにたどり着くのではないか」

なるほど、いかにも日本人が好みそうな、角の立たない説明です。私も人とけんかをしたいわけではありません。牧師であっても、「キリスト教だけが正しいなんて、排他的ではありませんか」と言われれば、正直、ちょっとひるみます。

けれども、考えてみてください。富士山の登山道がどれも同じ頂上に着くのは、それらが最初から同じ富士山の斜面に設けられた道だからです。どの道を歩いても、どちらの方向へ進んでも、必ず富士山頂に着くという意味ではありません。大阪から西へ向かって歩き続けながら、「すべての道は富士山に通じる」と言っても、そら着きません。方向が違えば、目的地も違います。

宗教も同じです。神とはどなたなのか。人間の根本問題は何なのか。死とは何か。救いとは何か。これらについて、諸宗教は同じことを別の言葉で言っているのではありません。互いに相当違うことを語っています。神は人格をもって世界を造られたお方なのか。それとも究極的な実在は人格を超えた何ものかなのか。人間の問題は神に背いた罪なのか、無知なのか、執着なのか。救いは罪の赦しなのか、悟りなのか、輪廻からの解脱なのか。ここを全部同じだと言ってしまうことは、寛容であるように見えて、実はそれぞれの信仰をまともに聞いていないことにもなります。

そして今日の聖書で、ペトロは、どう頑張っても「どの道も同じ頂上です」とは言えない言葉を語ります。

> 「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒言行録4章12節)

いやあ、もう少し柔らかく言えなかったのでしょうか。「イエス様も、救いに至る大切な道の一つです」くらいにしておけば、あまり怒られずに済んだかもしれません。ところがペトロは、「ほかのだれによっても」と言い切ります。今日は、この言葉をごまかさずに受け止めたいのです。

 2.問題にされたのは、一人の人が救われたことだった

使徒言行録4章は、3章から続いています。ペトロとヨハネが午後三時の祈りの時に神殿へ上って行くと、「美しい門」と呼ばれる神殿の門のそばに、生まれながら足の不自由な人が運ばれて来ました。彼は毎日そこに置かれ、参拝者に施しを求めていました。

彼が求めたのはお金でした。ところがペトロは言います。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。すると彼は立って歩きだし、躍りながら神を賛美して、二人と一緒に神殿の境内に入って行きました。

これは単なる見世物としての奇跡ではありません。一人の人が、物乞いとして門の外に置かれる生活から、神を賛美する礼拝者として共同体の中に迎え入れられた。足だけでなく、その人の人生、その人の居場所、その人の尊厳が回復された救いの出来事でした。

ところが、この出来事を見て、みんなが喜んだわけではありません。祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々がやって来て、ペトロとヨハネを捕らえ、翌日まで牢に入れます。なぜでしょう。一人の人が歩けるようになったのが、そんなに都合が悪かったのでしょうか。

彼らが腹を立てた理由は、二人が「イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えていた」からです。サドカイ派は死者の復活を認めません。また、神殿を管理する指導者たちにとって、十字架につけて葬ったはずのイエスが復活し、今も働いておられるという知らせは、自分たちの判断が間違っていたと暴かれる知らせでもありました。

福音が反発を受けるのは、人を不幸にするからではありません。この人は救われました。にもかかわらず反発が起こったのは、福音が、私たちの握りしめている権威や常識や自分の正しさを揺さぶるからです。「あなたの人生の主人はあなたではない。あなたにも悔い改めが必要だ。そして、あなたを救えるのはあなた自身ではなく、十字架につけられ、神が復活させられたイエスである」。この知らせは慰めですが、同時に私たちのプライドにとっては、まことに都合の悪い知らせです。

 3.以前は恐れたペトロが、なぜ大胆になれたのか

翌日、ペトロとヨハネは最高法院の中央に立たされます。少し前にイエス様を死刑へ追いやったのと同じ権力者たちです。彼らは尋ねます。「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」。

ここで「名」とは、単なる呼び名ではありません。その人の権威、その人自身、その人の力を表します。つまり彼らは、「誰の許可でこんなことをした。誰を後ろ盾にしているのか」と詰め寄ったのです。

ペトロは、少し前までどんな人だったでしょうか。イエス様が捕らえられた夜、「あなたもあの人の仲間でしょう」と尋ねられ、三度も「違う。そんな人は知らない」と否定した人です。相手は最高法院ではありません。屋敷にいた女中の一人でした。その一言を恐れて、イエス様との関係を否定したのです。

その同じペトロが今、イエス様を死刑へ追いやった人々の真ん中に立って、「あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたナザレの人、イエス・キリストの名によるものです」と語ります。

急に度胸がついたのでしょうか。開き直ったのでしょうか。聖書はそう説明しません。8節には「ペトロは聖霊に満たされて言った」とあります。ペトロの大胆さは、もともとの性格の強さではありません。失敗し、泣き崩れ、しかし復活のイエス様に赦され、もう一度立たせていただいた人の大胆さです。

教会で「大胆に証ししましょう」と言うと、声の大きい人、議論に強い人にならなければならないと思うかもしれません。そうではありません。キリストを証しする大胆さは、「私は絶対に間違わない」という自信からは生まれません。「私は何度も失敗した。しかし、こんな私をイエス様が赦し、立ち上がらせてくださった」という恵みから生まれるのです。

だから、ペトロは自分を売り込みません。「私の信仰が立派だったから、この人が癒やされた」とも言いません。ただ、ナザレの人イエス・キリストの名を指し示します。救いの中心にいるのは、立派な使徒ペトロではなく、十字架につけられ、復活されたイエス・キリストです。

 4.「この名のほかにない」とは、どういうことか

ペトロは詩編118編を引用して言います。

> 「この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。」(使徒言行録4章11節)

家を建てる専門家たちが、「こんな石は使えない」と捨てた。その捨てられた石を、神は建物全体を支える最も大切な石となさいました。人間の評価と神の評価が、完全に逆転したのです。人間はイエス様を「いらない」と十字架に捨てました。しかし神はその方を死者の中から復活させ、救いの土台となさいました。

そのうえで12節です。「ほかのだれによっても、救いは得られません」。なぜイエス・キリストだけなのでしょうか。キリスト教徒がほかの人より偉いからではありません。教会が神様を独占しているからでもありません。イエス様だけが、私たちの罪を担って十字架で死に、死に勝利して復活されたからです。

人類の教師はほかにもいます。深い思想を語った人、立派な生き方を示した人、弱い人に寄り添った人もいます。その知恵から学ぶことを、聖書は禁じていません。しかし、私たちの罪をその身に負い、神との断絶を引き受け、死の力を打ち破った方は、イエス・キリストのほかにはおられません。

たとえば、海で溺れている人に必要なのは、「正しい泳法を教えましょう」という助言だけではありません。その人のところまで飛び込んで来て、抱えて岸へ連れ帰る救い主が必要です。私たちのために死の深みへ下り、命へ連れ帰ってくださる方が、イエス・キリストです。

「キリストだけ」という言葉は、神様が救いの門を狭くして、人を追い返しているという意味ではありません。むしろ反対です。人間がどうしても神のもとへ登って行けなかったから、神の御子が私たちのところまで降りて来られたのです。救いは、険しい宗教の山を登り切った優秀な人への表彰ではありません。山の途中で倒れ、もう一歩も動けない私たちを、キリストが背負ってくださる恵みです。

「どの道から登っても同じ」なのではありません。そもそも福音は、私たちが神のところまで登って行く話ではない。神がキリストにおいて、私たちのところまで降りて来てくださった話なのです。

 5.キリストの唯一性は、クリスチャンの優越性ではない

ここは、とても大切です。「キリストのほかに救いはない」と信じることと、「だからクリスチャンはほかの人より偉い」と考えることは、正反対です。

もし私たちが自分の努力、自分の道徳、自分の信仰深さによって救われたのなら、自慢もできるでしょう。「私は正解を見抜いた。あなたは分かっていない」と上から言えるかもしれません。しかし、聖書が語るのは恵みによる救いです。自分では救えない罪人が、ただキリストに救っていただいた。そこに自慢の余地はありません。

病気の人が特効薬によって助かったとき、「この薬を飲んだ私は、飲んでいない人より人間として上だ」とは言いません。ただ、「私も危なかった。この薬によって助けられた。あなたにも届いてほしい」と願うはずです。キリストの唯一性を信じる者の姿勢は、勝ち誇ることではなく、感謝とへりくだりと証しです。

残念ながら、教会は歴史の中で、この唯一性を権力の正当化に使い、異なる信仰の人を傷つけたことがあります。それは悔い改めなければなりません。しかし、教会が福音を誤用したことと、イエス・キリストが唯一の救い主であることは、別の問題です。

私たちは、他宗教の方を侮辱しません。その方の人格、良心、信教の自由を尊重します。対話し、良い隣人として共に生きます。けれども、尊重することと、何を信じても同じだと言うことは違います。本当に相手を尊重するなら、相手の信仰を勝手に「あなたも本当はキリスト教と同じことを信じているのですよ」と塗り替えてはいけません。そして私たちも、「イエス様は数ある救い主の一人です」と、聖書が語っていないことを語ることはできないのです。

 6.「見たことや聞いたことを、話さないではいられない」

最高法院の人々も困りました。癒やされた人が二人のそばに立っているので、反論のしようがありません。そこで彼らは、今後イエスの名によってだれにも話してはならない、教えてはならないと命令します。

するとペトロとヨハネは答えました。

> 「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」(使徒言行録4章19~20節)

これは、何でも権力に逆らえばよいという無政府主義の言葉ではありません。自分の意見を神の御心に仕立てて、周りを従わせる言葉でもありません。彼らが話さずにいられなかったのは、自分の政治思想でも、自分の好みでもなく、十字架につけられたイエスが復活されたという、見たこと、聞いたことでした。

私たちも、批判を恐れて福音の核心を薄めてはいけません。信仰によって慰められることはあります。しかし福音は便利な生活術ではありません。イエス・キリストは、人生を少し快適にする追加アプリではない。罪と死から救う、代わりのない救い主です。

ですから教会は語ります。批判されても語ります。ただし、怒鳴りつける必要はありません。相手を論破して拍手をもらう必要もありません。ペトロたちの大胆さは、乱暴さではありません。聖霊に満たされ、目の前の人を救うイエスの名を、隠さず差し出すことです。

「私は何でも分かっています」ではなく、「私はこの方に救われました」。「あなたは間違っている」だけで終わらず、「あなたのためにも、この方は十字架にかかってくださいました」。それがキリスト者の証しです。

では、私たちはどうでしょうか。職場で、家庭で、友人との会話の中で、「宗教はどれも同じ」と言われたとき、波風を立てたくなくて黙ってしまうことはないでしょうか。もちろん、毎回けんかを売る必要はありません。しかし、穏やかにこう答えることはできます。

「私は、どの宗教も同じだとは考えていません。私が頑張って神様にたどり着いたのではなく、イエス・キリストが私の罪を負い、私を救うために来てくださったと信じているからです」。

それで笑われることがあるかもしれません。「時代遅れだ」「排他的だ」と言われるかもしれません。けれども、ペトロを立たせた聖霊は、今も私たちと共におられます。大胆さとは、怖くなくなることではありません。怖くても、キリストを恥じず、愛をもって真実を語ることです。

 7.あなたのために与えられた、ただ一つの名

今日、まだイエス様を信じておられない方もいらっしゃるかもしれません。「一つしかない」と聞くと、窮屈に感じるでしょうか。けれども、よく聞いてください。使徒言行録4章12節は、「この名のほか、人間には与えられていない」と言います。

救いの名は、人間が苦労して探し当てた秘密の暗号ではありません。神から「与えられた」名です。そして、その名は一部の民族、一部の立派な人だけに与えられたのではありません。「天下に」「人間に」与えられました。イエス・キリストは、あなたにも与えられた救い主です。

あなたは神様のもとへ登り切れなくてもよいのです。善行を積み上げて、自分を救える人間にならなくてもよい。過去の罪を自分で帳消しにしてから来なくてもよい。いや、それができたら苦労せえへんねん。できない私たちのために、イエス様は十字架にかかってくださいました。私たちが受けるべき裁きを引き受け、三日目に復活し、罪と死に勝利してくださいました。

救いは、富士山の頂上で待っているご褒美ではありません。ふもとで迷い、谷底に落ち、動けなくなった私たちのところへ、救い主が捜しに来てくださった出来事です。

だから私たちは、ほかの名を侮辱するためではなく、この名によって本当に救われたから告白します。

ほかのだれによっても、救いは得られません。

ナザレの人、十字架につけられ、神が復活させられたイエス・キリスト。この方こそ、あなたの罪を赦し、神と和解させ、死を越える命を与えてくださる救い主です。

どの道も登れば同じ富士の山というけれど、福音は、私たちがどの道を登るかという話ではありません。神の御子が、私たちを救うために天から降り、十字架の低みにまで来てくださったという知らせです。

この方の名を呼び求めてください。この方にあなたの人生を委ねてください。そして、既に信じている私たちは、批判を恐れず、しかし誰をも見下さず、ペトロたちと共に告白しましょう。

「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」と。
祈ります。

2026年7月12日 どの道も登れば同じ富士の山というけれど
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