弱者なら正義なのか――被害者ムーブを神学してみた
佐藤二朗さんと橋本愛さんをめぐるハラスメント報道が、世間を騒がせています。
もちろん、セクハラやパワハラは軽んじられてよいものではありません。立場の強い者が、その権力や影響力を用いて、弱い立場の人を傷つけるなら、それは厳しく問われるべきです。聖書もまた、孤児、寡婦、寄留者、貧しい者を守るように何度も命じています。神は、弱い者の叫びを聞かれるお方です。
しかし、ここで一つ注意しなければならないことがあります。
聖書は、「弱い立場にいる人は、いつも正しい」とは教えていません。
現代社会では、しばしば「被害者である」と名乗った瞬間に、その人の言葉が絶対化されることがあります。もちろん、本当に傷ついた人の声は大切に聞かなければなりません。しかし一方で、「自分は傷ついた」「これはハラスメントだ」と言えば、相手を一方的に黙らせることができる空気も生まれています。
いわゆる「ハラスメント・ハラスメント」、略して「ハラハラ」です。
何かを注意される。意見を言われる。耳の痛いことを指摘される。するとすぐに「それ、ハラスメントです」と返す。こうなると、本来守られるべき被害者の訴えまでもが軽く見られてしまいます。真剣にハラスメントと向き合う社会を作るためにも、「ハラスメント」という言葉を武器のように振り回してはならないのです。
実は、聖書にはこの問題を見事に言い当てたような言葉があります。
レビ記19章15節です。
「あなたたちは裁判において不正を行ってはならない。弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねったりしてはならない。同胞を正しく裁きなさい。」
驚くべき言葉です。
普通なら、「力ある者におもねるな」だけで十分に思えます。権力者に忖度するな。金持ちにへつらうな。強い者の味方をするな。これはよく分かります。
しかし聖書は、それだけでは終わりません。
「弱い者を偏ってかばってはならない」とも言うのです。
これは、弱者を冷たく突き放せという意味ではありません。弱い人を助けるな、ということでもありません。むしろ聖書全体は、弱い者への配慮に満ちています。
けれども、裁きの場においては、強者であれ弱者であれ、事実に基づいて正しく判断しなければならない。強いから悪い、弱いから正しい、という単純な図式に流されてはならない。これが聖書の正義です。
なぜなら、聖書が見ている人間理解は、もっと深いからです。
聖書は、人間を「強者」と「弱者」に二分して、強者だけが罪人で、弱者は清らかな善人だとは教えません。むしろ、強者も弱者も、男も女も、大人も子どもも、全人類が神の前に罪人であると教えます。
権力者は権力を乱用することがあります。けれども、弱い立場の人もまた、自分の弱さを盾にして相手を支配することがあります。上司が部下を潰すこともあれば、部下が「ハラスメント」の一言で上司を黙らせることもある。大人が若者を傷つけることもあれば、若者が「傷ついた」という言葉で対話を拒むこともある。
だからこそ、聖書は言うのです。
弱者を守れ。しかし、弱者を偶像化するな。
強者を裁け。しかし、強者を悪魔化するな。
同胞を正しく裁け。
今の日本社会に必要なのは、ハラスメントをなかったことにする鈍感さではありません。反対に、何でもハラスメントにしてしまう過敏さでもありません。
必要なのは、事実を丁寧に見、言葉を慎重に選び、人を属性だけで裁かない知恵です。
聖書の正義は、弱い者への憐れみと、事実への誠実さを切り離しません。だからこそ、二千年以上前のレビ記の言葉が、現代のSNS社会に突き刺さるのです。
「弱者なら正義」ではない。
「強者なら悪」でもない。
神の前では、私たちはみな罪人です。
だからこそ、誰かを裁く前に、自分もまた裁かれるべき者であることを忘れてはならないのです。

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