※サムネイルはニコラ・プッサン作「聖ペテロとヨハネ、足の不自由な人を癒す」
お金より大切なもの見つけた 使徒言行録3章1〜26節
今朝の御言葉には、生まれつき足の不自由だった一人の人が、主イエスの御名によって立ち上がる出来事が記されています。この人は毎日、「美しい門」と呼ばれる神殿の門のそばに置かれ、施しを求めていました。「美しい門」が正確にどの門であったかは断定できませんが、神殿の礼拝空間へ向かう大切な境界にあった門でした。彼は礼拝へ向かう人々を見ながら、自分は門のそばに置かれ、今日を生きるための施しを求めていたのです。
この人が求めていたのはお金でした。それは決して悪い願いではありません。食べるため、生きるために必要な願いでした。しかし神様は、その願いを入り口にして、彼にもっと深い救いを与えられました。ペトロは、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と語ります。すると、この人は立ち上がり、歩き、躍り上がり、神を賛美しながら神殿の境内に入って行きました。
これは、ただ足が動くようになったというだけの出来事ではありません。門のそばに置かれていた人が、神を賛美する人とされ、礼拝の交わりの中へ入れられたのです。イザヤ書35章には、神の救いが来る時、足の不自由な人が鹿のように躍り上がると預言されています。使徒言行録3章の出来事は、そのメシア預言がイエス・キリストにおいて成就しているしるしです。
人々はこの奇跡に驚き、ペトロとヨハネを見つめました。しかしペトロは、自分たちの力や信心によってこの人を歩かせたのではない、と語ります。奇跡は人間を大きく見せるためではなく、イエス・キリストを指し示すためにあります。ペトロは、人々が聖なる正しい方、命の導き手であるイエスを拒み、十字架につけたことを語ります。しかし福音はここで終わりません。人間はイエスを殺しましたが、神はこの方を死者の中から復活させられました。
私たちもまた、神様より自分を中心にして生きる罪を持っています。けれども神様は、罪の中にいる私たちを見捨てられませんでした。イエス・キリストの十字架において、神の正義と愛が完全に現されました。罪は罪として裁かれましたが、その裁きを主イエスが私たちの代わりに負ってくださいました。そして復活によって、罪の赦しと新しい命が開かれました。
ペトロは「悔い改めて立ち帰りなさい」と招きます。悔い改めとは、ただ反省することではなく、神様に背を向けていた者が、神様の方へ向きを変えることです。主イエスの十字架は、私たちの罪をぬぐい去るための十字架です。お金も大切です。日々の必要も軽んじてはなりません。しかし、私たちに本当に必要なのは、神様との交わりに回復されることです。
教会は、完成した人だけが集まる場所ではありません。赦された罪人が、恵みによって育てられていく場所です。立ち上がれない日も、祈れない日も、信仰が弱る日もあります。しかし、復活された主イエスの御名が、私たちをもう一度立ち上がらせてくださいます。銀や金にまさる宝、イエス・キリストの福音を、今朝もう一度受け取りましょう。
※サムネイルはニコラ・プッサン作「聖ペテロとヨハネ、足の不自由な人を癒す」

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