弱者なら正義、強者なら悪?聖書が教える「公平」の正体 レビ記19章15節

弱者なら正義、強者なら悪?聖書が教える「公平」の正体 レビ記19章15節(2026-08-02 礼拝説教) 説教

弱者なら正義、強者なら悪?聖書が教える「公平」の正体 レビ記19章15節

どこまでも公平な神様

聖書箇所:レビ記19章15節
平和聖日礼拝

1.「弱きを助け、強きを挫く」だけでよいのか

今朝、私たちに与えられている御言葉は、レビ記19章15節です。

今日は平和聖日です。いつもの礼拝では、できるだけ政党政治や社会運動の話を前面に出すのではなく、イエス・キリストの福音をまっすぐに語ることを大切にしています。しかし、平和聖日と「信教の自由を守る日」には、教会総会の了解をいただいて、少しだけ社会の問題にも目を向けることにしています。

平和について語るとき、私たちはよく「弱きを助け、強きを挫く」と言います。昔の時代劇なら、権力を笠に着た悪代官が出てきて、最後に正体を現した水戸黄門が懲らしめる。見ている方は胸がすっとします。弱い人が踏みにじられているなら、助けなければなりません。強い者が力を乱用しているなら、止めなければなりません。この感覚は大切です。

ところが、聖書の正義は、そこで終わりません。今日の御言葉はこう語ります。

「あなたたちは不正な裁判をしてはならない。弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい。」

後半の「力ある者におもねってはならない」は分かります。権力者だから、金持ちだから、偉い人だから、顔色をうかがって判決を曲げてはならない。これは当然です。しかし、その前に「弱い者を偏ってかばってはならない」とあります。えっ、そこまで言うのですか、と驚きます。

神様は、強い者の味方ではありません。しかし、弱い者なら、事実を確かめなくても自動的に正しいことにしてくださる方でもありません。神様は、どこまでも公平な方なのです。

2.公平と弱者保護は、反対ではない

レビ記19章は、しばしば「神聖法典」(ホーリネスコード)と呼ばれる部分にあります(レビ記17章~26章)。「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」という呼びかけから始まります。聖なる生活とは、礼拝の作法だけを整えることではありません。商売の秤をごまかさないこと、雇った人の賃金を翌朝まで留めないこと、障害のある人を苦しめないこと、そして裁判を公平に行うことまで含まれます。

当時の裁判は、町の門などで行われました。裁く人も、訴えている人も、同じ地域に住む顔見知りです。相手が有力者なら、後が怖い。貧しい人なら、かわいそうに思う。人間の判断には、恐れと同情の両方が入り込みます。そこで神様は、相手の顔ではなく、真実を見なさいと言われます。

出エジプト記23章も、実に見事な二つの戒めを並べています。3節では、訴訟において弱い人を曲げてかばってはならないと命じ、6節では、貧しい人の裁判を曲げてはならないと命じます。かばい過ぎてもいけない。切り捨ててもいけない。この二本の柵の間に、聖書の正義の道があります。

申命記1章17節も、「小さい者にも大きい者にも同じように耳を傾けなさい」と命じます。歴代誌下19章では、主には不正も偏見も賄賂もないのだから、裁判官も慎重に裁くよう教えられます。ヨブ記34章は、神様が身分の高い者をひいきせず、貧しい者より富める者を重んじることもないと語ります。ローマの信徒への手紙2章11節は、さらに端的です。「神は人を分け隔てなさいません。」

しかし、ここを絶対に勘違いしないでほしいのですけれども、公平であることは、弱い立場の人を放っておくことではありません。

申命記10章は、神様が人を偏り見ない方であると語った直後に、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる方だと語ります。公平な神様は、弱い人を特別に踏みつけさせない神様です。なぜなら、力の弱い人は、声を無視されやすく、権利を奪われやすいからです。

戦争において、武器を持たない子どもと攻撃を命じた者を、「どちらも人間だから五分五分です」と扱うなら、それは公平ではありません。いじめられた子と、集団でいじめた側を同じ責任だと言うなら、それも公平ではありません。性暴力や虐待、ハラスメントを訴える人に、最初から「あなたにも落ち度があったのでしょう」と言うなら、聖書の公平さではなく、二次加害です。弱い者が弱いがゆえに、さらに虐げられることは、絶対にあってはなりません。

大切なのは、神の前にはすべての人が罪人だということと、個々の出来事における加害と被害の責任が同じだということは、まったく別だということです。「みんな罪人です」という言葉で、具体的な加害責任を薄めてはいけません。被害を止め、被害者を安全な場所に移し、その声を丁寧に聞き、加害した者に責任を求める。それも神の正義です。

3.弱い立場は、無罪証明書ではない

そのうえで聖書は、もう一つの危険にも釘を刺します。弱者だから、貧者だから、女性だから、労働者だから、社会的身分が低いから、その人が自動的に善人になるわけではありません。反対に、強者だから、富者だから、男性だから、経営者だから、身分が高いから、その人が自動的に悪人になるわけでもありません。

これは、誰か特別に悪い人だけの話ではありません。子どもも、大人も、牧師も、長く教会に来ている人も、みんなこの言葉の前に立たされます。

人は弱い立場に置かれれば、必ず清らかになるのでしょうか。残念ながら、そうではありません。傷つけられた経験を持つ人が、別の場面では人を傷つけることもあります。貧しい人にも、ねたみや偽りや自己中心があります。労働者も経営者も、自分の立場を守るために事実を曲げる誘惑を受けます。女性も男性も、被害者にも加害者にもなり得ます。

では、社会的に強い人はどうでしょうか。富や地位は、その人が神様に愛されている証明でも、人格が優れている証明でもありません。富を用いて人を支配し、労働者の賃金を奪い、弱い人の声を封じるなら、聖書は厳しく裁きます。しかし、富や地位そのものが有罪判決でもありません。アリマタヤのヨセフは地位ある議員でしたが、主イエスの遺体を引き取りました。徴税人ザアカイは財産を持っていましたが、主イエスに出会い、悔い改め、その用い方を変えられました。

聖書が見るのは、属性ではなく、その人が真実の前でどう生きたかです。貧しいというだけで無罪にはならず、富んでいるというだけで有罪にもなりません。もちろん、実際に行った悪については、立場にかかわらず責任を負わなければなりません。

4.正義を看板にしてしまう教会

ここで私たちは、教会自身を振り返らなければなりません。教会はこれまで、社会の痛みに声を上げてきました。戦争に反対し、差別を告発し、貧しい人、被差別者、女性、外国人、障害のある人と共に歩もうとしてきました。その働きの多くは大切です。教会が自分の礼拝だけを守り、隣人の苦しみに「それは政治の話ですから」と背を向けるなら、良きサマリア人の譬えを読んでいないのと同じです。

しかし、正しい目的を掲げれば、自分まで自動的に正しくなるわけではありません。あえて厳しい言葉を使えば、教会の中にも「社会運動標榜ゴロ」と呼ばれても仕方のない振る舞いがなかったか、検証する必要があります。弱者の痛みを、自分の正しさを飾る看板にする。誰かの被害を、自分の影響力を広げる材料にする。事実を丁寧に確かめず、味方しない人を「差別者」「加害者」と決めつける。弱者を助けると言いながら、その弱者本人の声より、自分の運動の都合を優先する。もしそうなれば、それはもはや隣人愛ではありません。

けれども、これは社会派と呼ばれる人だけの誘惑ではありません。保守を名乗る人も、国、秩序、家族、伝統を看板にして、自分の権力欲や冷たさを正当化することがあります。教会内政治においても、少数者を守るという名目で反対者を黙らせることもあれば、秩序を守るという名目で傷ついた人の訴えを握りつぶすこともあります。右にも左にも、人間の罪は入り込みます。いや、罪というものは、ほんまに看板を選びません。平和、正義、伝統、信仰、どんな立派な言葉でも、自分を義とする道具にしてしまいます。

だから教会は、社会運動をしているか、していないかで義とされるのではありません。神様の前で御言葉に照らされ、絶えず悔い改める必要があります。平和聖日は、自分たちの正義を確認して気持ちよくなる日ではありません。私たちの正義さえ罪に汚されていることを認め、神様の正義に立ち帰る日です。

5.十字架の前では、すべての人が罪人である

ローマの信徒への手紙3章は、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」と語ります。富める者も貧しい者も、男性も女性も、経営者も労働者も、権力を持つ者も持たない者も、例外ではありません。

ここを勘違いしないでほしいのです。「みんな罪人なのだから、加害者を赦して水に流しましょう」という話ではありません。聖書の赦しは、被害者に沈黙を強いる道具ではありません。罪を罪と呼び、加害を止め、必要なら公的な責任を問い、償いを求める。そのうえでなお、人間は自分の正しさによって救われるのではなく、神の恵みによってしか救われないと語るのです。

主イエスは、ただ優しい先生だったのではありません。ただ立派な教えを語った人でもありません。罪のない方でありながら、不正な裁判にかけられ、権力者に見捨てられ、群衆の声に押し流され、十字架につけられました。主イエスこそ、弱い者とされた方です。だから、虐げられた人の痛みをご存じです。

同時に十字架は、私たち全員の罪を明らかにします。十字架につけた権力者だけではありません。群衆も、弟子たちも、そして私たちも、この方の贖いを必要としています。神様は、罪をなかったことにはされませんでした。御子がその裁きを担ってくださいました。十字架では、神の正義と神の愛が共に現れたのです。

私たちが立派になったから救われるのではありません。弱い側にいるから救われるのでも、正しい社会運動をしたから救われるのでもありません。罪人である私たちのために死に、復活されたイエス・キリストを信じる信仰によって、ただ恵みにより救われます。

6.公平な神のもとで造る平和

では、平和を造るとは何でしょうか。それは、強い者をすべて悪人に仕立て、弱い者をすべて善人に仕立てることではありません。また、「どちらにも言い分があります」と言って、力の差や明らかな加害を見ないふりすることでもありません。

平和を造るとは、神様の前にすべての人が等しい尊厳を持つ者として造られ、同時にすべての人が罪人であると認めることです。そして、具体的な不正を止め、弱い人の権利を守り、行われた罪には立場を問わず責任を求めることです。そのうえで、加害者さえ悔い改めて新しく生きられる道を、十字架の福音によって示すことです。

被害者には、「あなたの痛みは神様に見過ごされていません」と語る。加害した者には、「あなたの罪は立場や大義名分では正当化できません。しかし悔い改めてキリストのもとに帰る道は閉ざされていません」と語る。富む者には、託された富を隣人のために用いるよう求める。貧しい者には、あなたの価値は財産で決まらないと告げる。これが福音に立つ教会の平和の働きです。

教会は、完成した人だけが集まる場所ではありません。右の人も左の人も、強い人も弱い人も、傷つけられた人も人を傷つけた人も、御言葉によって罪を示され、十字架によって赦され、少しずつ造り変えられていく場所です。

どこまでも公平な神様は、弱い者を見捨てません。強い者におもねりません。そして、どちらにも悔い改めと救いを求められます。だから私たちも、属性や肩書きや世論ではなく、真実に耳を傾けましょう。苦しむ人を守りましょう。自分の正義を偶像にせず、十字架の前に立ちましょう。

この福音を、今朝もう一度受け取りましょう。キリストこそ私たちの平和です。この方に赦され、この方に正され、この方に従って、平和を造る者として歩ませていただきましょう。私たちの小さな労苦も、主にあって決してむだではありません。復活の主が来られる日、涙も不正も争いも終わり、神の正義と平和が完全に満ちる。その希望を見上げて、今日も一歩を踏み出しましょう。

※サムネイルはニコラ・プッサン作「ソロモンの裁き」からAI作成

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