チ。原作15話を神学してみた。「女性の論文なんて誰が読むの?」聖書は本当に女性を黙らせたのか?

チ。原作15話を神学してみた。「女性の論文なんて誰が読むの?」聖書は本当に女性を黙らせたのか? サブカルを神学してみた

『チ。―地球の運動について―』原作15話、アニメ7話までのネタバレを含みます。
また、原作の話数に合わせて神学(考察)していきますので、以下の過去作をまだご覧になっていない方はご覧ください。



チ。地球の運動について を神学してみた。|サブカル好きの牧師|note


チ。地球の運動についてを原作に基づいて、週2回くらいのペースで神学(考察)していく予定です。


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「女性の論文なんて、誰が読むの?」

牧師をしていると、ときどき聖書の言葉よりも、漫画の一コマから説教されることがあります。
『チ。―地球の運動について―』原作15話を読んでいたときも、そうでした。
天文研究所で働く少女ヨレンタは、優れた頭脳を持ちながら、女性であるというだけで研究者として扱われません。自分が書いた論文をコルベに見せると、内容は高く評価されます。ところが、発表された論文に書かれていたのは、ヨレンタではなくコルベの名前でした。
抗議するヨレンタに、コルベは悪びれもせず言います。

「女性の論文なんて、誰が読むの?」

(原作第三集 15話 P44より)

しかも彼は、自分が成果を盗んだとは考えていません。女性の名前で論文を出せば危険だから、自分が守ってやったのだと思っている。ここが、いちばん胃の痛くなるところです。
分かりやすい悪人より、善意の顔をした差別の方が厄介なのです。
原作15話は、コルベの仕打ちを受けたヨレンタが、掲示板の難問に答え、バデーニとオクジーに発見される流れを描きます。知性を隠さなければ生きられない少女が、それでも知ることを諦められない。『チ。』の脚本家による原作とアニメの対応説明でも、この一連の展開が原作15話として整理されています。

本当に「聖書のせい」なのか

このヨレンタを取り巻く世界では、女性は研究や議論に向かないという考えが、聖書によって正当化されます。
たしかに、新約聖書にはドキッとする言葉があります。

「婦人たちは、教会では黙っていなさい」

(第一コリント信徒への手紙14章34節)

さらに続く35節には、何か知りたいなら家で夫に尋ねるように、とあります。ここだけ切り取れば、「ほら、やっぱり聖書は女性が学ぶことを禁じているではないか」と思うかもしれません。
それにしても、です。
聖書は本当に、女性から知性を取り上げようとしているのでしょうか。
ここが面白いところです。
テモテへの手紙一2章11節には、「婦人は静かに、全く従順に学ぶべきです」とあります。議論になるのは次の12節の「教えたり、男の上に立ったりすることを許しません」という部分ですが、11節そのものは、女性に「学ぶな」と命じているのではありません。
むしろ原文の「学ぶ」は命令形です。
つまり最初に言われているのは、「女性も学びなさい」なのです。
当時の社会では、女性が正式な教育の場に入ること自体が当然ではありませんでした。中世の女性教育も皆無ではなく、家庭、初等教育、修道院、奉公や徒弟制度など、さまざまな学びの場がありました。しかし、大学を中心とする高度な学問世界が、基本的に男性の領域だったことも否定できません。
『チ。』は史実そのものではありませんが、ヨレンタの閉塞感には歴史的な現実が重なっています。

「黙れ」は絶対的な沈黙ではない

では、一コリント14章の「黙っていなさい」はどう読むのでしょうか。
同じ手紙の11章5節では、女性が礼拝の中で祈り、預言することが前提になっています。ですから14章の言葉を、「女性は教会で一言も発してはならない」という絶対命令として読むことはできません。
14章全体では、異言を語る者にも、預言する者にも、場合によっては「黙っていなさい」と命じられています。問題は性別そのものというより、礼拝を混乱させる発言だったと考えることができます。
女性たちの質問を指すのか、預言を吟味する場面を指すのか、あるいは教会の権威ある教えに限定されるのか、解釈は分かれます。しかし少なくとも、女性の読書、教育、研究、思考そのものを禁止する文章ではありません。
11章で女性の発言が前提とされ、14章で沈黙が命じられる緊張関係は、聖書学でも長く議論されてきました。
つまり、「女性は学ぶな」は聖書の結論ではありません。
牧師や教会の指導職を男女どちらが担うべきかについては、今日の福音派教会の中にも異なる立場があります。しかし、どの立場を取るとしても、女性の教育を妨げ、研究成果を男性名義にし、知性を危険物のように扱うことまで聖書から導くことはできません。
それは聖書に従っているのではなく、社会の偏見に聖書の表紙をかぶせているだけです。

イエスは女性を「弟子の席」に座らせた

さらに見逃せないのが、イエスの姿です。
ルカによる福音書10章で、マリアはイエスの足元に座り、その言葉を聞いています。
「先生の足元に座る」とは、単に床に座っていたという話ではありません。弟子として教えを受ける姿です。イエスは、女性であるマリアを台所へ戻しませんでした。彼女が学ぶことを「必要なただ一つのこと」「良い方」として受け止めたのです。
使徒言行録18章26節には、プリスキラが夫アキラと共に、雄弁な伝道者アポロへ神の道をより正確に説明する場面もあります。
新約聖書の教会には、学び、理解し、その知識によって他者を助けた女性が確かにいました。

地球だけでなく、知識も誰かを中心に回ってはいない

ヨレンタの悲劇は、彼女に知性がなかったことではありません。
知性があるのに、その知性の所有者として認めてもらえなかったことです。
コルベは、ヨレンタの論文を評価しました。しかし、ヨレンタ自身は評価しませんでした。彼が必要としたのは彼女の頭脳であって、彼女の名前ではなかったのです。
これは根の深い問題です。
教会も、「女性の奉仕には感謝します」と言いながら、女性の問い、神学的な意見、聖書理解を本気で聞いていないことはないでしょうか。
お茶を入れる手は歓迎する。しかし、聖書を開いて問いを投げかける口は歓迎しない。
そんな教会になってしまえば、私たちはヨレンタの知性を借りながら、名前だけを消したコルベを笑えません。
『チ。』は、地球が人間の思い通りの中心を回っているわけではない、と問いかける物語です。
同じように、真理も男性だけを中心に回っているわけではありません。
神が与えた知性を、性別や身分を理由に押し込めるとき、私たちは神の秩序を守っているのではなく、自分たちに都合のよい秩序を守っているだけかもしれません。
聖書は女性に「学ぶな」とは言っていません。
むしろ、学びなさい。
そして教会は、その学びを恐れてはならないのです。

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