輸血を「解禁」したなら、禁じた責任も引き受けよーエホバの証人の教義変更と、統治体に問われる責任

時事問題

エホバの証人の教義変更と、統治体に問われる責任

「良心の問題」になったというニュース

昨日まで神に背く行為とされていた医療が、今日から本人の判断で受けられるようになる。では、昨日まで、その教えに従って命を失った人はどうなるのでしょうか。

2026年9月18日、エホバの証人の統治体は、他人の血液に由来する赤血球、白血球、血漿、血小板を受け入れるかどうかを、個人の良心に委ねると発表しました。成分や分画を提供する目的での献血も個人の判断となります。全血輸血の禁止は維持されているので、「輸血の全面解禁」ではありません。[1]

しかし、日本赤十字社によれば、医療機関への供給数は赤血球・血漿・血小板製剤でほぼ100%を占め、全血製剤はほとんど使われていません。日本の医療の実態に照らせば、今回の変更は「事実上の輸血解禁」と評価できる大きな転換です。[2]

受けられる治療の選択肢が広がったことは歓迎します。問題は、それで過去まで片づいたことにされないかということです。

朝日新聞も9月24日、成分輸血の容認とともに、過去の輸血拒否問題の責任を問う声を報じました。[3] 一般紙も責任論を取り上げています。そのうえで、牧師である私は、もう一歩踏み込んで問いたいのです。そもそも、この禁止は本当に聖書の教えだったのでしょうか。

聖書が変わったわけではない

教団の従来の出版物『神の愛』は、輸血を拒否することに加え、「神の律法に対する敬意ゆえに」四つの主要成分も受け入れないと説明していました。[4] 単なる健康上の好みではありません。神への忠実さに関わる問題として教えられていたのです。

ところが今回の公式声明は、血液の主要成分について、聖書は何も述べていないと説明しています。[1]

聖書に、新しく赤血球についての一節が書き加えられたのでしょうか。もちろん違います。変わったのは聖書ではなく、統治体の解釈です。

それなら、昨日までの禁止も、神の命令そのものではなく、人間の解釈だったのではありませんか。

解釈を改めること自体は必要です。私たちの教会も間違えます。問題は、人間の解釈を神の命令として人に要求し、その人が命を懸けて従った後で、説明も謝罪もなく「これからは各自で判断してください」とすることです。

禁止を教えた側の責任と、治療を選ぶ本人の責任は、別に考えなければなりません。後者を強調することで前者を見えなくするなら、それは責任転嫁に等しいと私は考えます。

亡くなった人を「個人の選択」で片づけるな

これは抽象的な議論ではありません。

教団の雑誌『目ざめよ!』1994年5月22日号は、14歳で病気が見つかり、輸血を拒否したエイドリアン・イエーツ少年を紹介しています。記事によれば、医師は輸血を伴う治療が必要だと説明しましたが、少年は拒否し、後に亡くなりました。教団は、命を延ばせた可能性のある輸血を拒んだ少年を、神を第一にした若者として称賛しています。[5]

輸血を受ければ必ず助かったと断言することはできません。しかし、救命や延命の可能性がある治療を拒むことが、信仰の模範として教団自身によって語られてきた事実は残ります。

そのような記事を読み、同じ決断をした人もいたでしょう。「神に従うためだ」と考え、子どもの輸血に同意しなかった親もいたでしょう。今、そうした人たちは今回の変更をどのような思いで受け止めているのでしょうか。

「それは当時の本人の良心でした」と言われて、納得できるでしょうか。その良心を、長年の教えによって形づくったのは誰だったのでしょうか。

今回確認した9月18日の公式声明には、過去の死者や遺族への謝罪、旧方針の責任を検証する説明は見当たりません。[1] そこにあるのは、今後の個人の判断を尊重するという説明です。将来の自由を認めることは必要ですが、それだけで過去に対する責任を果たしたことにはなりません。

私は、教団に経緯の説明と独立した検証を求めます。従来の教えによって治療の選択を狭められた人々の声を聴き、謝罪や支援の必要を具体的に検討すべきです。教義の変更には、傷ついた人への応答が伴わなければなりません。

信仰の自由は、教団の免責ではない

成人が十分な説明を受け、自分の信念から治療を選ぶことは尊重されるべきです。しかし、そのことと、選択に強い影響を与えた宗教組織の責任を問わないことは同じではありません。

神への不忠実になる、復活の希望を失う、仲間を失望させる。そんな恐れを抱えながら下した判断を、ただ「自由な自己決定」と呼べば十分なのでしょうか。

まして、子どもには、親や教団とは別の命と将来があります。親の信仰の自由という言葉で、子どもが失うものまで覆い隠してよいはずがありません。

教団の指導者にも信仰の自由はあります。しかし、信仰の自由は、教えの妥当性や、その教えが他者に及ぼした影響について、批判も検証も受けなくてよいという権利ではありません。

「宗教だから尊重しましょう」で話を終えることは、信徒を尊重しているようで、実は信徒を教団の内側に置き去りにしてしまいます。私が守りたいのは、組織の体面より、一人ひとりの命と良心です。

「血を避けよ」は、輸血禁止なのか

エホバの証人は、創世記9章4節や使徒言行録15章などを、輸血禁止の根拠としてきました。

創世記では、命である血を含んだ肉を食べることが禁じられています。使徒言行録15章の決定にも、偶像に献げたもの、血、絞め殺した動物など、飲食に関わる事柄が含まれています。

そこから、血液を食べることと医療として血液成分を用いることを同一視し、救命のための輸血まで一律に禁じるには、さらに解釈の段階を踏まなければなりません。その結論が、本文にそのまま書かれているわけではないのです。

血が命を表すという聖書の思想を受け止めるなら、まず問うべきは、どうすれば命を大切にできるかではありませんか。命の尊さを示す教えによって、救える可能性のある命を危険にさらす。その読み方は、聖書の目的を取り違えていないでしょうか。

イエスはこう言われました。

安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。
――マルコによる福音書2章27節、新共同訳 [6]

この言葉は、都合に合わせて何でも許してよいという意味ではありません。神の命令の目的を見失い、規則を守るために人を押しつぶす宗教性への問いです。

今回の教団の説明は、聖書に書かれていることを超える権限はないとし、信仰を支配する者ではないというパウロの言葉も挙げています。[7] その原則は大切です。だからこそ、それを過去の禁止にも向けていただきたいのです。聖書にない規則を加える権限がないなら、なぜそれを神の律法として求めてきたのでしょうか。

統治体こそ、聖書によって吟味されるべきである

エホバの証人はキリスト教を名乗りながら、歴史的なキリスト教会が告白してきた三位一体などを、聖書に反する教えとして退けてきました。その一方で、自分たちの指導組織は、どれほど厳しく聖書に照らして吟味されているのでしょうか。

ここは正確に述べる必要があります。公式FAQは、自分たちだけが救われると考えているかという問いに否と答え、救いの判断をイエスに委ねると説明しています。[8] それでも、統治体の指示に従うことと、キリストに従うこととを重ねる教えはあります。

『ものみの塔』2017年2月号は、統治体は霊感を受けておらず、教義や組織上の指示で誤ることがあると認めています。同じ記事は、その指示に従うことをイエスに従うこととして説明しています。[9]

しかし、誤る人間の判断と、キリストへの服従を、そこまで結びつけてよいのでしょうか。

その歴史には、前身の聖書研究者の時代に、1925年にアブラハムらが復活すると期待させた出版物があります。1975年にも、キリストの千年統治の開始をめぐる期待があり、実現しませんでした。これらは教団自身の歴史書にも記されています。[10]

そして今、神の律法への敬意として拒否していた血液成分を、良心の問題とする。終末の年代と医療の判断は別の問題ですが、共通して問われるのは、人間の解釈にどこまで神の権威を与えてよいかということです。

使徒言行録15章には、使徒たちと長老たちが協議した記録があります。しかし、その記録から、現代のニューヨーク州の世界本部にいる統治体が、同じ権威を独占していると結論するには、別の根拠が必要です。マタイ24章の忠実な僕のたとえを、自分たちだけに当てはめることも同様です。

問いたいのです。聖書にない輸血禁止を神の命令として課し、後から変更できる組織の仕組みこそ、非聖書的なのではありませんか。

エホバの証人の皆さんへ――聖書を取り戻してほしい

この記事を読んでいるエホバの証人の方に、私は申し上げたいと思います。神を愛し、聖書に忠実でありたいというあなたの願いを、私は軽んじません。問うているのは、あなたの誠実さではなく、その誠実さを方向づけてきた組織の権威です。

今回の変更に戸惑ったなら、その疑問を押し殺さないでください。「以前はなぜ禁止だったのか」「亡くなった人に何と説明するのか」と尋ねることは、神への反逆ではありません。

統治体の説明をいったん脇に置き、聖書の一つの節だけでなく、前後を続けて読んでみてください。使徒言行録17章11節では、人々がパウロの話を聴いた後、それが本当かどうか聖書を調べた姿が評価されています。使徒の言葉さえ吟味されたのです。現代の統治体だけが吟味を免れる理由はありません。

組織への疑問と、神を捨てることは同じではありません。統治体への信頼が揺らいでも、キリストまで失わなくてよいのです。

あなたが求めていたものは、変更され続ける規則に自分を合わせることだったのでしょうか。それとも、キリストを知り、神の恵みに生かされることだったのでしょうか。

牧師たちよ、扉を開いてほしい

この記事を読んだクリスチャンの皆さん。ご家族や友人にエホバの証人の方がいるなら、この記事を共に読み、話し合うきっかけにしていただければと思います。

ただし、「ほら、あなたたちは間違っていた」と勝ち誇って差し出さないでください。長年信じた教えが揺らぐことは、自分の人生や家族との関係まで揺らぐ出来事です。「今回の変更をどう受け止めている?」と、その人の言葉を聴くところから始めてほしいのです。

そして牧師の先生方。いま、統治体への信頼が揺らぎ、これまでの教えを問い直している人がいるかもしれません。私たちは、その人が安心して話せる場所を用意できているでしょうか。

異端についての知識を持つだけでは足りません。疑問を口にでき、悲しみや怒りを受け止めてもらえ、必要なら専門の相談先にもつながれる。そのような教会でありたいと思います。すぐに入信や所属を求めず、一緒に聖書を読み、キリストを知る歩みに伴走してください。

私たちの教会も、自分たちの解釈を絶対化しないよう問われます。組織を守るために人の声を封じるなら、同じ過ちに近づくからです。

輸血の選択肢が開かれたことを喜びます。しかし、失われた命は、教義の変更によって戻りません。だからこそ、禁じた側の責任を問い、今もその教えに苦しむ人に手を差し伸べたいのです。

教会の扉を開きましょう。統治体を通さなければ神に近づけないと思ってきた人が、キリストに出会えるように。


出典・確認資料(2026年10月8日確認)

[1] エホバの証人公式声明、2026年9月18日「血液の主要成分を受け入れたり献血したりすることについては各自が決定」

グローバル-インフォメーション/国ごと/グローバルニュース/エホバの証人-血液の主要成分を受け入れたり献血したりすることについては各自が決定/

[2] 日本赤十字社「輸血用血液製剤一覧」
https://www.jrc.or.jp/donation/blood/list/

[3] 朝日新聞、2026年9月24日「エホバの証人、成分輸血を容認 過去の輸血拒否問題の責任問う声も」
https://smart.asahi.com/v/article/ASV9S0PRZV9SUTIL007M.php
※確認したのは公開された見出し・冒頭部分。

[4] エホバの証人『神の愛』「神と同じように命と血を尊重する」、第10段落

ライブラリー/書籍/神-愛/尊重-命-血/

[5] Awake!(『目ざめよ!』)1994年5月22日号 “He ‘Remembered His Creator in the Days of His Youth’”
https://wol.jw.org/en/wol/pc/r1/lp-e/1200273424/5/9

[6] マルコによる福音書2章27節、新共同訳(日本聖書協会)。引用文確認先:

新共同訳

[7] エホバの証人 “How Do Jehovah’s Witnesses Show Respect for Life?”(2026年統治体からの話第6回に対応する「読者からの質問」)
https://www.jw.org/en/library/series/more-topics/jehovahs-witnesses-view-blood/

[8] エホバの証人公式FAQ「エホバの証人は自分たちだけが救われると考えていますか」

エホバの証人/よくある質問/だれが救われるか/

[9] The Watchtower—Study Edition, February 2017, “Who Is Leading God’s People Today?”, paragraphs 12, 17–19
https://www.jw.org/en/library/magazines/watchtower-study-february-2017/who-is-leading-gods-people-today/

[10] Jehovah’s Witnesses—Proclaimers of God’s Kingdom(『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』)、第7章・第28章
https://wol.jw.org/en/wol/d/r1/lp-e/1101993008?p=par&q=1925
https://wol.jw.org/en/wol/pc/r1/lp-e/1200275317/1/0

※「事実上の輸血解禁」は、全血輸血禁止の継続と、日本の成分輸血の普及を踏まえた本稿の評価。組織の責任や聖書解釈に関する記述は筆者の倫理的・神学的論評であり、個別事案の法的責任を確定するものではない。

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