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ルカ11章1~13節 求めよさらば与えられん 主の祈りの本当の意味

ルカ伝の主の祈りはマタイ伝のそれと比べて短いです。新約聖書27巻が揃うまでの初代教会において、特にマタイ伝の普及がおくれ、ルカ文書、パウロ文書が先に普及した教会ではルカ伝にある主の祈りを礼拝の時に唱えていた教会もあったことでしょう。つまり、私たちが毎週唱える主の祈りはもともと、祈りの定型文、式文、口碑ではなく、祈りの大まかな指針をしめした、エッセンスだったということです。
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エフェソ2章8~9節 人類史上最大事the REFORMATION

サムネイルはフェルディナンド・パウウェルズ作「ヴィッテンベルク場に95か条の提題を貼りだすマルチンルター」エフェソ2章8...
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第一ペテロ3章13~17節 キリスト教の疑問に答えて答えて答える

私自身も決して最初からキリスト教を熱心に信仰していたというものではありません。むしろ、ここにいらっしゃる誰よりもキリスト教に疑念に持ち疑問を持っていた者であったという自負があります。そして、「キリスト教の教えの矛盾を見つけてそれをついて牧師さん、神父さんを困らせてやろう」とさえ思っていた人間です。しかし、ありとあらゆる疑問を吹っかけて弁明できる、人生観、世界観、宇宙観、死生観というのものがあり、自分の持っていた「神様を信じる人ってこんなもの」「宗教って所詮こんなもの」というものがいかに薄っぺらいものかというのを痛感させられ、キリスト教の信者になったというよりは、薄っぺらな「神様信じない教」を脱会した破滅的な「自分が神様教」を辞めた結果クリスチャンになったというのが本当の所なのです。
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ルカの福音書10章38~42節 人生における優先順位の付け方

マルタのマリアの姉妹は対照的な姉妹でマルタは給仕、応接に手一杯でした。イエス様へのもてなしを何もしないマリアにマルタは腹を立てて、マリアを注意しないイエス様にまで小言をいいます。イエス様は注意されるべきはマルタであるために優しく、しかし、否定を許さない形で2回呼びかけて「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」とおっしゃいました。
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ゼカリヤ書9章9~10節 マイナーな預言書を学ぼう ゼカリヤ書にあるキリスト預言

書かれた時代は紀元前520年ごろ、ペルシャの皇帝ダレイオスの治世の第二年の8月に預言されたことが書の冒頭に書かれています。先月学んだハガイ書の冒頭には同じ年の6月に預言したと書かれているので、ハガイとゼカリヤは預言したのは2か月しか離れていません。両方ともバビロン捕囚後ペルシャからエルサレムへの帰還を許された後の預言者、エズラ記の5章と時代がダブる預言者です。本書は小預言書といいながらも14章もあり、大きく二部に別れています。
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ルカの福音書10章25~37節 天国の『近く』までの行き方

本日の聖書箇所は、一般に「よきサマリア人のたとえ(Parable of the Good Samaritan)」として知られています。善行を奨励する名詞として、good Samaritan law、good Samaritan  Church、やgood Samaritan hospitalとして用られることがあります。またこの中の、神を愛せよ、隣人を愛せよとのことばは、旧約律法にもあり、イエス様の言葉でもあり、教会の標語となることもしばしばあります。しかし、これらのことをすれば立派なクリスチャンの条件を満たしたことになるのでしょうか?
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ルカ福音書9章46~48節『チー牛』と呼ばれる人も救われる

本日、説教題にあえて、チー牛(ちーぎゅう)という言葉を上げさせて頂きました。元はチーズ牛丼の略です。2008年頃あるインターネット掲示板で、就労支援をはじめとして行政支援を受ける弱者男性の外見を「チーズ牛丼を食べてそう」と嘲るように投稿したのが初出です。根暗な人、オタクの人、弱者男性 を揶揄する時に使われる言葉です。21世紀の日本にイエス様がこられて同じようにルカの福音書9章の場面に出くわしたら、イエス様は誰を手に取り、ご自分の側に立たせるでしょう、私は「チー牛」と呼ばれる成人男性をむしろ側に立たせるのではないだろうかと思うのです。
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ハガイ書2章20~23節 イエス様のファミリーヒストリー

ゼルバベルはハガイ書の最後にかかれたメシヤ預言を自分の事だと勘違いしてしまったのでしょう。ペルシャ当局から目をつけられたのでしょう。忽然と歴史の表舞台から消えます。マタイ福音書1章にイエス様の家系図が載っていますが、ゼルバベルから先は行方知れずです。子、孫、曾孫、玄孫、来孫、昆孫、仍孫、雲孫、そして、ゼルバベルの雲孫の子にイエス様の父、ヨセフが生れます。人々の不信仰ゆえにダビデ王家は没落しましたがそれすらも神様はリカバリーしてくださり、救い主を生れさせてくださり、貧しさすらも私たちの益としてくださったのです。
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ルカ福音書9章1~20節 イエスって誰? Who is Jesus?

9章前半では、72人の弟子が派遣され、イエス様から力と権能をあたえられ、イエスの名声がますますひろまります。領主ヘロデの所にまで耳に入り、イエスとは誰なのかと当惑することになります。次に4つの福音書に記されているイエス様在世当時で最大規模のしるし、五千人の給食の奇跡がおきて、今度はイエス様がペテロに、「群衆は私のことを誰だといっているか?」と問い、さらにはペテロ自身に「あなたは私を誰というか?」と問うています。これは、福音書記者であるルカが読者である私たちに、しつこく、何度もイエスとは誰かと問うているのです。
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ルカ福音書8章40~48節 いい加減な信仰なのに認めてくださった

 彼女の信仰理解は呪術的、御利益宗教的、機械的なものでした。このままでは彼女は真に救われないとみた主イエスは、自分から力が抜けていった原因となった彼女に正直に告白すること、人格的な交流を望まれました。その中で彼女は主に対して信仰は正統的、人格的、霊的、有機的なものに「観念」させられ、全てを正直に洗いざらいはなすことになりました。彼女はいつから「正しい」信仰を持っていたのでしょう。正しい信仰を持つ前から愛され、信仰も神が正していただけたのです。