出エジプト14章10~32節 年十二回で学ぶモーセ五書  モーセが海を割る有名なところ

説教

出エジプト14章10~32節 年十二回で学ぶモーセ五書  モーセが海を割る有名なところ

今日、私たちは旧約聖書を月に一度たどりながら、創世記を除くモーセ五書を一年で俯瞰する旅を続けています。出エジプト記1章、2章では「創世記のその後」として、神の約束の民がエジプトで奴隷になっていた現実を見ました。3章では、燃える柴の前でモーセが召され、「わたしはある」という神の御名が示されました。12章では、過越の小羊の血によって、裁きの夜に救いが備えられたことを見ました。

 そして今日はいよいよ出エジプト記14章です。副題に書きました。「モーセが海を裂くあの有名なところ!」です。旧約聖書をあまり知らない人でも、この場面だけは何となく知っているかもしれません。映画『十戒』でチャールトン・ヘストンが杖を上げると海がバーッと裂ける。アニメ『プリンス・オブ・エジプト』でも圧巻の場面です。日曜学校の紙芝居でも、子どもたちが「おおっ」となる場面です。

 けれども、ここで最初に言っておきたいのです。これは「モーセすごい」の話ではありません。モーセが手品師のように海を割った話ではない。これは、追い詰められた民のために、神ご自身が救いの道を開かれた物語です。

1.後ろはファラオ、前は海――逃げ場のない場所に導かれる

 イスラエルの民は、ついにエジプトを出ました。長い奴隷生活から解放され、過越の夜を越え、さあ約束の地へ向かうのだと思ったその直後、彼らは信じられない状況に置かれます。前には海。後ろからはファラオの軍勢。逃げ道がないのです。

 10節にはこうあります。イスラエルの人々は目を上げた。すると、エジプト人が追いかけて来るのが見えた。彼らは非常に恐れ、主に向かって叫びました。

 無理もありません。海は泳いで渡れるようなものではない。後ろから来るのは、当時最強クラスの軍事力です。戦車です。馬です。武装した兵士です。こちらは、昨日まで奴隷だった民です。軍隊ではありません。武器も訓練もありません。子どもも老人もいます。家畜も荷物もあります。

 もう詰んでいるのです。将棋で言えば、王手どころではない。完全に詰みです。「いや、これ、どうするんですか」という状況です。

 そして、ここで人間の本音が出ます。11節、12節で彼らはモーセに言います。

 「エジプトに墓がないから、我々を荒れ野で死なせるために連れて来たのか。エジプトで我々が言ったではないか。我々のことは放っておいてくれ。エジプト人に仕える方がよかった、と。」

 この言葉、ひどい言葉です。しかし、分からなくもないのです。人間は追い詰められると、信仰的な言葉より先に、恐れの言葉が出ます。感謝より先に、文句が出ます。希望より先に、昔の奴隷生活を美化してしまう。

 「エジプトにいた方がよかった。」

 でも、ほんまにそうでしょうか。エジプトでは、彼らは自由だったのでしょうか。違います。奴隷でした。子どもたちは殺され、労働に苦しめられ、叫び声を上げていたのです。それなのに、苦しみの中で人は不思議なことをします。過去の奴隷生活を「安定」と呼んでしまうのです。

 私たちも同じです。神に従って歩み始めたのに、途中で困難に出会うと、「前の方がよかったのではないか」と思うことがあります。罪の支配から解放されたはずなのに、古い生き方に戻りたくなる。神を信じて歩み始めたのに、すぐに道が開けないと、「信じたのに、なぜこんなことが起こるのか」とつぶやいてしまう。

 けれども、出エジプト記14章は教えています。神に導かれているからといって、海のない道を通るとは限らない。むしろ神は、海の前まで導かれることがある。
なぜでしょうか。そこが、神の救いを知る場所になるからです。

2.「恐れてはならない。主が戦われる」

 そこでモーセは民に言います。

 「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」

 これは、聖書の中でも非常に力強い言葉です。けれども、誤解してはいけません。これは「何もしなくていい」「努力しなくていい」という怠けの勧めではありません。そうではなく、救いの根本は人間の頑張りではなく、主の御業にあるという宣言です。

 イスラエルの民は、ここでエジプト軍と戦って勝つことはできません。海を自力で開くこともできません。橋を作る時間もありません。彼らにできることは何もない。だからこそ、神がなさるのです。

 私たちは「信仰」という言葉を、時々、精神力のように考えてしまいます。「もっと強く信じなさい」「もっと前向きに考えなさい」「もっと頑張りなさい」。もちろん、励ましは必要です。しかし聖書が語る信仰は、単なる根性論ではありません。

 信仰とは、目の前の海を見ないふりをすることではありません。後ろから迫る戦車を「気のせいです」と言い聞かせることでもありません。信仰とは、海も見える、戦車も見える、逃げ場がないことも分かる。それでもなお、「主が戦われる」と聞いて、その御言葉に身を委ねることです。

 「あなたたちは静かにしていなさい。」

 これは簡単なことではありません。人は不安な時ほど騒ぎます。口数が増えます。誰かを責めます。過去を悔やみます。未来を恐れます。頭の中で最悪のシナリオを何十回も再生します。

 けれども神は言われます。静まれ。わたしの救いを見よ。

 詩編46編にも、「静まって、わたしこそ神であることを知れ」とあります。信仰とは、時に、動くこと以上に、静まることです。自分が神になることをやめることです。自分で全部コントロールしようとすることを手放すことです。

3.神は海の中に道を造られる

 主はモーセに命じられます。杖を上げ、手を海に向けて伸ばしなさい。すると主は、強い東風によって海を退かせ、水を分けられました。イスラエルの人々は、海の中の乾いた所を進んで行きました。水は彼らの右と左に壁のようになりました。

 想像してみてください。右にも左にも水の壁。足元は乾いた地。さっきまで絶望の壁だった海が、今は救いの道になっているのです。

 ここが聖書の神のすごいところです。神は、問題をただ取り除くだけではありません。時に、問題そのものの中に道を造られます。海がなくなったのではありません。海の中に道ができたのです。

 私たちはよく祈ります。「神様、この問題をなくしてください。この苦しみを消してください。この困難を取り除いてください。」もちろん、そのように祈ってよいのです。しかし神の答えは、いつも「海を消す」ことではありません。神は時に、「海の中を通りなさい」と言われます。

 病がすぐに消えないことがあります。家庭の問題が一瞬で解決しないことがあります。教会の課題も、地域の課題も、信仰生活の悩みも、すぐに消えるわけではありません。けれども、神はその中に道を造られる。私たちが「ここは行き止まりだ」と思った場所に、神は「ここから進みなさい」と道を開かれるのです。

 しかも、この道はイスラエルが作った道ではありません。彼らの知恵や計画や努力の成果ではありません。神が開かれた道です。

 救いとは、まさにそういうものです。私たちは自分の罪と死の前で、逃げ場がありません。後ろからは過去の罪が追いかけてくる。前には死という海が広がっている。自分の力では渡れない。善行を積んでも、宗教的に見える行いをしても、罪と死の支配を自力で打ち破ることはできない。

 その私たちのために、神は道を開かれました。それがイエス・キリストです。

 イエス様は、「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われました。キリストは、私たちが神に至るための道です。罪と死を越えて、神の命へ至る道です。その道は、私たちが作ったのではありません。神が、十字架と復活によって開いてくださった道です。

4.同じ海が、救いにも裁きにもなる

 ここで忘れてはならないことがあります。同じ海が、イスラエルにとっては救いの道となり、エジプト軍にとっては裁きの場となったということです。

 エジプト軍はイスラエルを追って海の中に入ってきます。しかし、主はエジプト軍をかき乱され、戦車の車輪を外されます。彼らは言います。「イスラエルを離れて逃げよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。」

 遅い。気づくのが遅いのです。ファラオは十の災いを経験しても、なお悔い改めませんでした。過越の夜を見ても、なお心をかたくなにしました。そして最後に、神の救いの道を、なお支配と暴力の道として利用しようとしたのです。

 その結果、海は元に戻り、エジプト軍を覆いました。

 ここには厳粛な真理があります。神の救いを拒み、なお人を支配し、神に逆らい続ける力は、最後には裁かれるということです。聖書の神は、ただ優しいだけの神ではありません。虐げられる者の叫びを聞かれる神であり、傲慢な権力を裁かれる神です。

 このことを聞くと、現代の私たちは少し戸惑うかもしれません。「裁き」という言葉に抵抗を覚えるかもしれません。しかし、もし神が裁かれないなら、この世界の悪はどうなるのでしょうか。奴隷を踏みにじるファラオも、子どもを殺す命令も、暴力も搾取も、全部うやむやになるのでしょうか。それは愛ではありません。

 神の愛は、悪をそのままにしない愛です。神の救いは、罪と死の支配から人を解放する救いです。だからこそ、同じ海が、救いにも裁きにもなるのです。

 そして、このことは十字架において最も深く示されます。十字架は、神の愛の場所です。しかし同時に、罪に対する神の裁きの場所でもあります。本来なら私たちが受けるべき罪の裁きを、キリストがご自身の身に受けてくださった。だから、キリストを信じる者にとって、十字架は滅びではなく命への道となるのです。

 過越の小羊の血が裁きの夜に救いをもたらしたように、十字架のキリストの血が、罪人である私たちを救います。そして紅海を渡ったイスラエルが奴隷の地から自由の旅へと入ったように、キリストを信じる者は、罪の奴隷から神の子としての歩みへと移されるのです。

5.恐れから信仰へ――見た民は主を畏れ、信じた

 31節には、この出来事の結論が記されています。

 イスラエルは、主がエジプトに対して行われた大いなる御業を見ました。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じました。

 ここで大事なのは、「民は最初から立派な信仰者だった」のではないということです。彼らは恐れました。叫びました。つぶやきました。モーセを責めました。「エジプトにいた方がよかった」とまで言いました。けれども、そのような民を、神は見捨てませんでした。神は彼らを救い、恐れから信仰へと導かれました。

 これが恵みです。

 信仰とは、恐れを一度も感じない人のことではありません。信仰者も恐れます。牧師も恐れます。教会も恐れます。人生の海を前にして、「これは無理やろ」と思うことがあります。後ろから追ってくる問題を見て、「もう終わりや」と思うことがあります。

 けれども、神は恐れている者に言われます。
「恐れてはならない。」
「わたしの救いを見なさい。」
「わたしがあなたのために戦う。」

 そして、私たちの信仰は、私たちの内側から無理やり絞り出すものではなく、神の御業を見ることによって生まれていくのです。

 イスラエルの民は、海が裂けるのを見ました。私たちは何を見るのでしょうか。私たちは、十字架と復活を見ます。イエス・キリストが私たちの罪のために死に、三日目によみがえられたことを見ます。そこに、神が開いてくださった救いの道があります。

 紅海の向こうに新しい歩みがあったように、復活の主の向こうに新しい命があります。

6.「渡りなさい」――信仰は開かれた道を歩むこと

 最後に、もう一つ大切なことを見たいのです。神は海を裂かれました。しかし、イスラエルの民は、その道を実際に歩かなければなりませんでした。

 水の壁の間を歩くのは、怖かったと思います。右を見ても水。左を見ても水。「これ、途中で戻ってきたらどうするんや」と思った人もいたでしょう。子どもが泣いたかもしれません。老人の足取りは遅かったかもしれません。それでも彼らは進みました。

 信仰とは、神が開かれた道を一歩踏み出すことです。

 神が救いの道を開いてくださった。キリストが十字架と復活によって、罪と死を越える道となってくださった。では、私たちはどうするのか。その道を眺めているだけではなく、キリストに信頼して歩み出すのです。

 教会に来ているだけで、何となく聖書の話を聞いているだけで、信仰の道を歩んでいるつもりになることがあります。しかし、聖書は私たちを招きます。キリストを信じなさい。神の救いに身を委ねなさい。古い奴隷の地に戻るのではなく、主が開かれた自由の道を歩みなさい。

 もちろん、その道は楽な道ばかりではありません。紅海を渡ったあと、イスラエルはすぐに約束の地に着いたわけではありません。荒れ野の旅が続きます。マナの訓練があり、十戒が与えられ、失敗もあり、悔い改めもあり、神の忍耐深い導きがあります。

 しかし、決定的なことが起こりました。彼らはもうエジプトの奴隷ではありません。主によって救い出された民なのです。

 キリスト者の歩みも同じです。信じた瞬間に、すべての悩みが消えるわけではありません。けれども、決定的なことが起こります。私たちは罪と死の奴隷ではなく、キリストにあって神の子とされるのです。そこから、新しい旅が始まります。

結び――海が裂けるとき、私たちは主を見る

 出エジプト記14章は、「モーセが海を裂くあの有名なところ」です。しかし本当は、モーセが主役ではありません。海が主役でもありません。主役は、救いの道を開かれる神です。

 恐れに支配された民に、神は言われました。
「恐れてはならない。」
「主の救いを見なさい。」
「主があなたたちのために戦われる。」

 私たちの人生にも、海があります。前に進めないと思う現実があります。後ろから追ってくる過去があります。罪があります。死があります。自分の力ではどうにもならない壁があります。

 けれども、神は海の前で終わらせる方ではありません。神は、海の中に道を造られる方です。そしてその究極の道こそ、イエス・キリストです。

 キリストの十字架によって、罪の裁きは担われました。キリストの復活によって、死の海は打ち破られました。だから私たちは、恐れから信仰へと導かれます。

 今日、あなたがもし海の前に立っているなら、まず静まってください。自分で全部解決しようとして、心の中で戦車の音ばかり聞いているなら、主の言葉を聞いてください。

 「恐れてはならない。主の救いを見なさい。」

 そして、主が開かれた道を、一歩踏み出しましょう。
私たちの前にあるのは、行き止まりではありません。
神が開かれる、救いの道です。
恐れから信仰へ。奴隷の地から自由へ。死から命へ。
主は今日も、私たちのために戦ってくださるのです。

※サムネイルはAI作成による

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました