はじめに
三年半、私たちはルカによる福音書を読み続けてきました。
三年半です。小学校に入った子が、もう三年生、四年生になるくらいの時間です。途中でクリスマスがあり、受難週があり、イースターがあり、何度も季節を越えながら、私たちはルカと一緒にイエス様の道を歩いてきました。
そして、ルカによる福音書の最後で、イエス様は復活され、弟子たちに現れ、彼らを祝福しながら天に上げられました。普通ならそこで「完」と出るところです。映画ならエンドロールです。ドラマなら最終回です。「いやあ、長かったけど、ええ話やったなあ」で終わるところです。
ところが、今日から始まる使徒言行録は、そうではないのです。
使徒言行録の冒頭でルカは、こういう意味のことを言います。
「前の書では、イエスが行い、教え始められたことを書いた」と。
ここが大事です。
ルカによる福音書は、イエス様が「行い、教えられたこと」を書いた書物です。しかしルカは、それを「行い、教え始められたこと」と言うのです。
つまり、イエス様の働きは、ルカ福音書で終わっていない。
十字架で終わっていない。
復活で終わっていない。
昇天で終わっていない。
そこからなお続いている。
では、どこで続いているのか。
教会です。
聖霊を受けた弟子たちの歩みの中です。
そして、今日ここに集められている私たちの歩みの中です。
だから使徒言行録は、単なる「昔の使徒たちの記録」ではありません。
これは、ルカ福音書の続編です。
そしてもっと言えば、これは「教会が、イエス様の続きを生きる物語」です。
1 弟子たちが気にしていたのは「セカイノオワリ」だった
今日の箇所で、復活されたイエス様は、四十日にわたって弟子たちに現れ、神の国について語られました。
弟子たちは、もう何度も失敗した人たちです。
イエス様が捕らえられた時には逃げました。
ペトロは三度、主を知らないと言いました。
十字架の前では、ほとんど誰も立っていられませんでした。
けれども、復活の主は、その弟子たちを見捨てませんでした。
「あんたら、もうええわ」とは言われなかった。
「こんな大事な時に逃げた者には任せられへん」とは言われなかった。
復活の主は、傷を持ったまま、弟子たちに現れます。
そして彼らに、もう一度語ります。
神の国について語ります。
これからあなたがたは、聖霊を受けるのだと語ります。
すると弟子たちは、イエス様に尋ねます。
「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか。」
この質問、分かります。
弟子たちは、イエス様が復活されたことを見たのです。
死に勝たれたお方が目の前にいる。
それなら、いよいよ世の中がひっくり返るのではないか。
ローマ帝国の支配が終わるのではないか。
イスラエルが回復するのではないか。
神の国が目に見える形で完成するのではないか。
つまり弟子たちは、「その日はいつですか」と聞いているのです。
世界はいつ終わるのですか。
神の国はいつ完成するのですか。
今ですか。もうすぐですか。何年後ですか。
これ、私たちも好きです。
「終末はいつか」
「世界はどうなるのか」
「この戦争は聖書の預言と関係あるのか」
「この地震は終わりのしるしなのか」
「この世界情勢は黙示録のどこに当たるのか」
もちろん、聖書は終末について語っています。
イエス様は再び来られます。
この世界は永遠にこのまま続くのではありません。
歴史には神の完成があります。
それはキリスト教信仰の大切な希望です。
しかし、問題はそこではありません。
問題は、私たちが「終わりの日」を考える時、しばしば主ご自身よりも、日付や出来事や陰謀や不安に心を奪われてしまうことです。
終末を待ち望んでいるようで、実は恐怖に支配されている。
神の国を信じているようで、実は自分の知的好奇心を満たしたいだけになっている。
キリストの再臨を語っているようで、隣人にキリストを証しすることを忘れている。
イエス様は、弟子たちに答えられます。
「時や時期は、あなたがたの知るところではない。」
これは冷たい突き放しではありません。
むしろ、優しい方向転換です。
「そこは父なる神に委ねなさい。あなたがたが握らなくていい。あなたがたが管理しなくていい。あなたがたが不安になって占わなくていい。」
人間は、分からないことがあると不安になります。
不安になると、何とかして握ろうとします。
未来を握りたい。
終わりの時を知りたい。
自分の人生がどうなるか知りたい。
教会がどうなるか知りたい。
日本がどうなるか知りたい。
世界がどうなるか知りたい。
けれども、イエス様は言われるのです。
「それはあなたがたが握るものではない。」
信仰とは、すべての答えを先に知ることではありません。
信仰とは、すべてを知っておられる神に、自分を委ねることです。
2 イエス様が伝えたかったのは「いつか」ではなく「あなたがた」
では、イエス様は弟子たちに何を伝えたかったのでしょうか。
それは「世界の終わりはいつか」ではありません。
「あなたがたは、わたしの証人となる」ということです。
ここが今日の説教題です。
「セカイノオワリよりもあなたに伝えたいこと」。
イエス様は、終末を否定しているのではありません。
再臨を否定しているのでもありません。
むしろ、11節では、天に上げられたイエス様が、再び来られることが告げられます。
けれども、イエス様が弟子たちにまず伝えたかったことは、
「終わりの日のスケジュール」ではなく、
「あなたがたは、聖霊によって力を受け、わたしの証人となる」ということでした。
これはものすごい言葉です。
なぜなら、弟子たちは立派な人たちではなかったからです。
信仰の勇者ではなかった。
筋金入りの宣教師でもなかった。
復活の主を見てもなお、どこかズレた質問をしている人たちです。
しかしイエス様は、その彼らに言われるのです。
「あなたがたは証人となる。」
証人とは何でしょうか。
証人とは、難しい神学理論を全部説明できる人のことではありません。
証人とは、自分が見たこと、聞いたこと、経験したことを語る人です。
「私はこの方に出会いました。」
「私はこの方に赦されました。」
「私はこの方に支えられました。」
「私はこの方によって、もう一度立ち上がらせていただきました。」
それを語る人です。
もちろん、聖書を学ぶことは大切です。
教理を知ることも大切です。
信仰の言葉を整えることも大切です。
けれども、証しの中心はそこではありません。
証しの中心は、復活の主イエス・キリストです。
「この方は生きておられる。」
「この方は今も人を救われる。」
「この方は罪人を招かれる。」
「この方は失敗した者をもう一度用いてくださる。」
これを語るのです。
そして、この「証人となる」という言葉には、範囲が示されています。
エルサレム、ユダヤとサマリア、そして地の果てまで。
これは地図の話であると同時に、心の話です。
エルサレムとは、弟子たちにとって最も身近な場所です。
しかし同時に、イエス様が十字架につけられた場所でもあります。
失敗の記憶がある場所です。
恐れがある場所です。
傷がある場所です。
証しは、まずそこから始まります。
遠い外国の話だけではありません。
自分の家庭、自分の職場、自分の学校、自分の地域、自分の教会。
一番身近で、一番難しい場所。
そこが私たちのエルサレムです。
ユダヤは、少し範囲が広がった同胞の世界です。
サマリアは、行きたくない場所、関わりたくない人々のいる場所です。
ユダヤ人とサマリア人の間には、長い断絶がありました。
宗教的にも、民族的にも、感情的にも、壁がありました。
けれども福音は、その壁を越えていきます。
「この人たちには無理だ」
「この人たちとは分かり合えない」
「この人たちは教会には合わない」
「この人たちは生活が整っていない」
「この人たちは信仰的にふさわしくない」
そういう壁を、福音は越えていきます。
なぜなら、イエス様がまず私たちの壁を越えて来てくださったからです。
神の子が、天の栄光を離れて、地上に来てくださった。
罪人のもとに来てくださった。
徴税人や罪人と食卓を囲まれた。
病人に触れられた。
汚れていると言われた人々のそばに立たれた。
そして最後には、十字架で、神に背いた私たちの罪を背負ってくださった。
だから教会は、きれいな人だけを集める場所ではありません。
整った人だけを迎える場所ではありません。
教会は、キリストに赦された罪人が、もう一人の罪人に向かって、
「あなたもこの恵みに招かれています」と告げる場所です。
3 証人になる力は、私たちの根性ではなく聖霊から来る
しかし、ここで私たちは思います。
「そんな証人になるなんて、私には無理です。」
そうです。無理です。
自分の力では無理です。
弟子たちも無理でした。
彼らはついこの間まで、鍵をかけた部屋に閉じこもっていました。
ユダヤ人たちを恐れていました。
自分たちの失敗に打ちのめされていました。
その弟子たちが、なぜ後に大胆に語るようになったのか。
なぜ、迫害されてもキリストを証しするようになったのか。
なぜ、エルサレムから始まって、サマリアへ、異邦人の世界へ、ついには地の果てへと福音が広がっていったのか。
それは、弟子たちが急にメンタル強者になったからではありません。
自己啓発セミナーを受けたからでもありません。
「やる気スイッチ」が入ったからでもありません。
聖霊が降ったからです。
イエス様は言われます。
「あなたがたの上に聖霊が降ると、力を受ける。」
教会の力は、人数ではありません。
建物ではありません。
予算ではありません。
牧師の話術でもありません。
プログラムの多さでもありません。
もちろん、それらも大切に用いられます。
けれども、教会を本当に教会にする力は、聖霊です。
人を悔い改めへ導くのも聖霊です。
罪の赦しを信じさせるのも聖霊です。
弱い者を立ち上がらせるのも聖霊です。
恐れている者を遣わすのも聖霊です。
語る言葉のない者に、ふさわしい言葉を与えるのも聖霊です。
ですから、私たちはまず待つのです。
弟子たちはすぐに飛び出したのではありません。
イエス様は「エルサレムを離れず、父の約束を待ちなさい」と言われました。
待つことも信仰です。
祈ることも宣教の始まりです。
「何かせなあかん」と焦る前に、主の前に留まる。
「自分で何とかしなければ」と背負い込む前に、聖霊の助けを求める。
私たちは、すぐに結果を求めます。
教会もそうです。
何人来たか。
どれだけ増えたか。
どれだけ反応があったか。
どれだけバズったか。
どれだけ数字が動いたか。
でも、使徒言行録の始まりは、数字ではありません。
待つことです。
祈ることです。
聖霊を求めることです。
証しは、焦りから出るものではありません。
証しは、聖霊に満たされて、キリストの恵みがあふれるところから生まれます。
4 天を見上げる信仰は、地上で隣人に向かう
さて、イエス様は弟子たちの見ている前で天に上げられました。
雲に包まれて、見えなくなりました。
弟子たちは、じっと天を見上げていました。
その気持ちも分かります。
目の前で、愛する主が見えなくなったのです。
もう少し見ていたい。
もう一度戻って来てほしい。
この空の向こうに何があるのか知りたい。
天を見上げ続ける弟子たち。
すると、白い服を着た二人の人が言います。
「なぜ天を見上げて立っているのか。」
これは、天を見上げるな、という意味ではありません。
キリスト者は天を見上げる者です。
私たちはこの地上だけを見て生きるのではありません。
天におられる主を仰ぎ、再び来られる主を待ち望みます。
しかし、天を見上げたまま、地上の使命を忘れてはいけないのです。
天を見上げる信仰は、現実逃避ではありません。
「どうせこの世は終わるんだから、今の世界なんてどうでもいい」ではありません。
「どうせ天国に行くんだから、隣人の痛みなんて関係ない」ではありません。
むしろ逆です。
天におられる主を信じるからこそ、地上で誠実に生きる。
再び来られる主を待ち望むからこそ、今日、隣人を愛する。
歴史の完成を神に委ねるからこそ、今、与えられた場所で証人として立つ。
世界の終わりがある。
だから投げやりに生きるのではありません。
世界の終わりがある。
だからこそ、今日を大切に生きるのです。
人生にも終わりがあります。
誰も永遠に地上で生きることはできません。
だから「どうせ終わる」と言って捨てるのではなく、
「終わりがあるからこそ、今日、伝えたいことを伝える」のです。
愛しているなら、愛していると伝える。
赦すべき人がいるなら、赦しへの一歩を踏み出す。
謝るべき人がいるなら、謝る。
祈るべき人がいるなら、祈る。
誘うべき人がいるなら、礼拝に誘う。
伝えるべき福音があるなら、伝える。
「いつか」ではないのです。
「そのうち」ではないのです。
「もう少し信仰が立派になったら」でもない。
「もう少し教会が整ったら」でもない。
復活の主は、今日も私たちに言われます。
「あなたがたは、わたしの証人となる。」
5 あなたに伝えたいこと
では、今日、私たちは何を伝えるのでしょうか。
世界の終わりの日付ではありません。
不安をあおる話でもありません。
誰かを裁く言葉でもありません。
「あなたはまだ整っていないからだめだ」という話でもありません。
私たちが伝えたいことは、イエス・キリストです。
キリストは、あなたの罪のために十字架にかかられました。
キリストは、あなたを神のもとに取り戻すために命を捨てられました。
キリストは、死に打ち勝って復活されました。
キリストは、今も生きておられます。
キリストは、天に上げられ、父なる神の右におられます。
キリストは、聖霊によって私たちと共におられます。
キリストは、再び来られます。
だから、あなたの失敗は最後の言葉ではありません。
あなたの罪は、神の恵みより大きくありません。
あなたの弱さは、聖霊の力を妨げる決定的な理由にはなりません。
あなたの過去は、キリストの未来を閉ざすものではありません。
弟子たちは失敗しました。
逃げました。
恐れました。
勘違いもしました。
それでも主は、彼らを証人とされました。
ならば、私たちも用いられます。
完璧だからではありません。
資格があるからではありません。
キリストが生きておられるからです。
聖霊が与えられるからです。
神の恵みが、私たちの弱さの中で働くからです。
三年半、私たちはルカ福音書を通して、イエス様がどのようなお方かを見てきました。
貧しい者に福音を告げる方。
罪人を招く方。
失われた者を捜す方。
泣く者と共に泣く方。
十字架で敵のために祈る方。
復活して、恐れる弟子たちの真ん中に立たれる方。
そのイエス様の物語は、終わっていません。
使徒言行録は、教会を通して続くキリストの働きです。
そして、その続きは、今日の私たちにも渡されています。
私たちは、世界の終わりを握る必要はありません。
父なる神が握っておられます。
私たちは、未来を完全に知る必要はありません。
主が知っておられます。
私たちは、自分の力で教会を救う必要もありません。
教会の主はキリストです。
けれども、私たちには今日、与えられていることがあります。
聖霊を待ち望むこと。
祈ること。
キリストの証人として生きること。
身近なエルサレムから、越えがたいサマリアへ、そして地の果てへと、福音を携えていくこと。
「セカイノオワリよりもあなたに伝えたいこと」。
それは、世界の終わりの予想ではありません。
それは、あなたを救うキリストです。
あなたを愛し、あなたのために死に、あなたのためによみがえられた主です。
そして、あなたをも証人として立たせてくださる主です。
天を見上げましょう。
しかし、天を見上げたまま立ち尽くすのではありません。
天におられる主を仰いだからこそ、地上の隣人のもとへ遣わされましょう。
主は今も生きておられます。
主の働きは今も続いています。
そして今日、ここから、私たちの使徒言行録が始まります。


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