使徒言行録5章1~11節 神様は愛だから、侮っても大丈夫?

使徒言行録5章1~11節 神様は愛だから、侮っても大丈夫?(2026-08-09 礼拝説教) 説教

使徒言行録5章1~11節 神様は愛だから、侮っても大丈夫?

今朝、私たちに与えられている御言葉は、使徒言行録の中でも、できれば読み飛ばしたくなるような箇所です。

アナニアとサッピラという夫婦が土地を売り、その代金の一部を教会に献げました。ところが、二人は相次いで倒れ、息を引き取ってしまいます。しかも、ペトロが厳しい言葉を語った直後です。

「旧約聖書の神様は怖いけれど、新約聖書の神様は優しい」。そんなイメージを持っている方がおられるかもしれません。しかし、それは聖書全体から受け取ったイメージというよりも、教会が少々「報道しない自由」を行使して作ってしまった、偏ったイメージではないでしょうか。

新約聖書にも、こんなに厳しい裁きの物語があります。逆に旧約聖書には、罪人を何度も赦し、立ち帰るのを待ち続ける神様の愛が、これでもかというほど記されています。旧約では怖かった神様が、新約になって丸くなられたのではありません。同じ神様です。旧約でも新約でも、神様は愛なる方であり、同時に義なる方、罪を罪のまま放置なさらない聖なる方です。

今日はこの、少し怖い御言葉を避けずに読みたいと思います。しかし、恐怖だけで終わってはなりません。この出来事を通して、神様を侮らないとはどういうことか、そして罪人である私たちに、どのような救いが備えられているのかを御言葉から聞いてまいりましょう。

1.問題は、全額を献げなかったことではない

この出来事の直前、使徒言行録4章には、最初の教会の美しい姿が描かれています。信じた人々は心も思いも一つにし、必要のある人を支えるため、自分の土地や家を売って、その代金を使徒たちの足もとに置きました。その代表として登場するのが、バルナバです。彼は畑を売り、その代金を持って来ました。

その直後に、「ところが」と始まるのがアナニアとサッピラの物語です。二人も土地を売りました。そして、代金の一部を持って来て、使徒たちの足もとに置きました。

ここだけ読むと、思うかもしれません。

「一部だけではあかんのか。教会、怖すぎるやろ。献金は全額強制ですか」

しかし、そうではありません。ペトロは4節で、土地は売らずにおけば自分のものであり、売った後も代金は自分の思いどおりになったではないか、と語っています。

つまり、土地を売ることも自由でした。いくら献げるかも自由でした。半分を自分たちの生活のために残し、「残りの半分を献げます」と正直に言えば、何の問題もなかったのです。

問題は、献げた金額ではありません。二人は一部を手もとに残しながら、あたかも全部を献げたかのように見せました。「自分たちもバルナバと同じくらい献身的です」「私たちもすべてを神様に献げました」と、人から評価されようとしたのです。

二人は土地代の一部を残しただけではありません。神様のための場所に、偽りを持ち込んだのです。献金そのものは立派です。けれども、その立派な行為を使って、自分を実際以上に信仰深く見せようとしました。

これは、誰か特別に悪い人だけの話ではありません。私たちも、人の目を気にします。本当は祈っていないのに、祈っているように見せたい。本当は聖書を読んでいないのに、よく知っているように振る舞いたい。本当は喜んで奉仕しているわけではないのに、「私はこんなに教会のために頑張っています」と認めてもらいたい。

牧師にもあります。説教で語っているほど、自分が立派に信仰を生きているわけではありません。それでも、皆さんからは信仰深く見られたい。子どもも、大人も、牧師も、長く教会に来ている人も、みんなこの言葉の前に立たされます。

教会は、立派な自分を演じる舞台ではありません。教会は、罪人が罪人のまま開き直る場所でもありませんが、罪を隠して立派な人のふりをする場所でもありません。教会は、赦された罪人が、「神様、私はこんな者です」と正直になり、恵みによって少しずつ造り変えられていく場所です。

2.人を欺けても、聖霊を欺くことはできない

ペトロはアナニアに言いました。

「なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。」

さらに4節では、「あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」と言います。

ここには、聖霊がどのような方であるかが、はっきり示されています。聖霊は、なんとなく教会に漂う空気ではありません。心を温かくする雰囲気でも、私たちが必要なときに利用する不思議なエネルギーでもありません。聖霊は、欺かれることを悲しまれる人格ある方であり、神御自身です。聖霊を欺くことは、神を欺くことだとペトロは語ります。

アナニアとサッピラは、ペトロならごまかせると思ったのでしょう。しかし、教会の本当の主はペトロではありません。聖霊なる神様です。人間の目をごまかせても、神様をごまかすことはできません。

もっとも、神様がすべてを知っておられるということは、本来、私たちを脅すためだけの教えではありません。人には言えない涙も、誰にも気づいてもらえない奉仕も、誤解されている苦しみも、神様は知ってくださっています。それは大きな慰めです。

しかし、同じ光は、私たちが隠しておきたいものも照らします。表向きの信仰と内側の思いの食い違いも、神様は御存じです。ですから、神様の前で取り繕う必要はありません。いや、取り繕っても仕方がないのです。

サッピラは約3時間後にやって来ました。夫に何が起きたかを知りません。ペトロは彼女に、土地を売った値段を尋ねます。これは、真実を語る最後の機会でした。しかし彼女も、夫と相談して決めた偽りを繰り返しました。

夫婦で心を合わせることは大切です。しかし、心を合わせさえすれば何でも正しいわけではありません。二人は愛し合っていたかもしれませんが、共に神様を試す方向へ進んでしまいました。

「みんなで決めたから」「家族で相談したから」「教会の多数決で決まったから」。それだけでは、神様の前に正しいことの保証にはなりません。私たちは一緒に、御言葉の前に立たなければなりません。

3.なぜ、これほど厳しい裁きだったのか

それにしても、なぜ二人は命まで取られなければならなかったのでしょうか。正直に言えば、私たちにも似た偽善があります。もし同じ裁きが毎週の礼拝で起きるなら、礼拝後に何人残っているか分かりません。牧師が最初に倒れているかもしれません。

この出来事は、教会が誕生したばかりの、救いの歴史の重要な節目に起こりました。使徒言行録では、聖霊が注がれ、福音がエルサレムから地の果てへ広がり始めています。その最初の教会に、偽りが入り込もうとしました。

神様は、教会が人間の見栄と演技によって造られる集団ではなく、聖霊によって生かされる御自分の民であることを、厳しい仕方で示されたのです。

この物語は、旧約聖書のヨシュア記7章に登場するアカンの事件を思い起こさせます。イスラエルの民が約束の地へ歩み始めた、その最初の時期に、アカンは神様に献げられるべき戦利品の一部を、ひそかに自分のものにしました。

実は、アナニアが代金の一部を「ごまかした」と訳される言葉は、ギリシア語の旧約聖書で、アカンが戦利品を自分のものにしたことにも使われています。「ここでルカは『ノスフィゾマイ』という、ちょっと珍しい動詞を使っています。日本語でたとえるなら、『矛盾する』という言葉を聞けば、知っている人なら“矛と盾を売ったあの故事”を思い出すようなものです。ルカがこの言葉を選んだ瞬間、旧約聖書を知っている読者の頭には、アカンの物語がちらっと浮かぶわけです。」

約束の地に入る民の出発点でも、聖霊によって生まれた教会の出発点でも、神様は御自分の民を壊す偽りを軽く扱われませんでした。罪は「ちょっと話を盛っただけ」で終わらないからです。偽りを放置すれば、教会は、正直な罪人が恵みを求める場所ではなく、信仰深そうに見せる競技会になってしまいます。

11節には、「教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた」とあります。使徒言行録の中で「教会」という言葉が明確に用いられる最初の箇所が、ここです。華々しい成長の場面ではありません。教会が神様を畏れた場面です。

教会の土台にあるのは、人間の勢いや人気だけではありません。愛なる神様への信頼と、聖なる神様への畏れです。

ただし、ここで注意したいことがあります。アナニアとサッピラがその場で命を失ったことと、二人が永遠の滅びに定められたこととは同じではありません。本文は、二人が地獄へ行ったとは一言も述べていません。かといって、二人は必ず救われたと断言することも、本文を越えてしまいます。

聖書が私たちに知らせていない最終的な運命を、こちらで勝手に決めるべきではありません。この箇所が語っているのは、地獄に行く人の判定方法ではなく、聖霊なる神を侮ってはならないということです。神様の恵みは、神様を軽く扱ってよいという許可証ではありません。

4.愛と義が出会う十字架

では、私たちはこの神様の前に、どうやって立つことができるのでしょうか。偽りのない人だけが神様の前に立てるなら、誰も立てません。献金も祈りも奉仕も、完全に純粋な動機だけでできた人など、一人もいないからです。

しかし、福音はここで終わりません。

新約聖書の神様は優しく、旧約聖書の神様は怖い、という分け方が間違っているように、愛の神様と裁きの神様を別々に考えることも間違いです。神様の愛と義が最もはっきり現れた場所、それがイエス・キリストの十字架です。

神様は、「人間は弱いから、罪なんて見なかったことにしよう」とは言われませんでした。罪をうやむやにすることは、愛ではありません。偽りに傷つけられた人、裏切られた人、踏みにじられた人の痛みまで、なかったことにしてしまうからです。神様は罪を正しく裁かれる方です。

しかし神様は、罪の中にいる私たちを見捨てられませんでした。私たちが受けるべき裁きを、罪のない御子イエス・キリストが十字架で引き受けてくださいました。そして主イエスは死を打ち破り、復活されました。

十字架では、神様の正義が少しも曲げられず、同時に、罪人を救おうとする神様の愛が惜しみなく注がれています。

私たちが立派になったから救われるのではありません。隠してきた罪を正直に言い表し、キリストに信頼する者は赦されます。正しい信仰を持つ前から愛され、私たちの信仰も神様が正し、育ててくださるのです。

ですから、アナニアとサッピラの物語を聞いて、「ばれないように、もっと上手に隠そう」と思ってはなりません。「自分は二人ほど悪くない」と安心するのでもありません。神様の前で仮面を外すのです。

「神様、私は人から良く見られたいのです」「献げたものより、認められることを求めています」「信仰深いふりをしています」。そう告白してよいのです。

神様は、正直に罪を認めて御前に来る人を追い返されません。私たちの罪をすでに知ったうえで、キリストへ招いておられます。

神様は愛です。しかし、だから侮っても大丈夫なのではありません。神様は愛だからこそ、私たちを偽りの中に放置されません。神様は聖なる方だからこそ、私たちを清め、真実な者へと造り変えてくださいます。

教会は、全額を献げられる立派な人だけが集まる場所ではありません。教会は、罪のない人の集まりでもありません。自分では自分を救えない罪人が、キリストの十字架によって赦され、聖霊によって新しくされていく場所です。

まだキリストを信じておられない方も、神様の前で自分を飾る必要はありません。ありのままの罪と弱さを抱えて、主イエスのもとへ来てください。

すでに信じている私たちも、信仰者らしい仮面を外し、もう一度、十字架の恵みに帰りましょう。

聖霊を侮らず、同時に、聖霊が私たちの内に住み、悔い改めへ導き、キリストに似た者へ造り変えてくださることを信じましょう。

やがて主が来られる日、隠されていたすべては明らかにされます。しかし、キリストにある者は、恐れて逃げる必要はありません。私たちの裁きを担い、復活された主が、私たちを御国へ迎えてくださるからです。

この愛と義の神様を畏れ、信頼して歩みましょう。この福音を、今朝もう一度受け取りましょう。アーメン。

※サムネイルはラファエロ作「アナニアの死」

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