チ。原作17話を神学してみた。「勇気一つを友にして」でイカロスを誤解していた?

チ。原作17話を神学してみた。「勇気一つを友にして」でイカロスを誤解していた? サブカルを神学してみた

『チ。―地球の運動について―』原作17話、アニメ8話までのネタバレを含みます。
また、原作の話数に合わせて神学(考察)していきますので、以下の過去作をまだご覧になっていない方はご覧ください。



チ。地球の運動について を神学してみた。|サブカル好きの牧師|note


チ。地球の運動についてを原作に基づいて、週2回くらいのペースで神学(考察)していく予定です。


note.com

「イカロスにならねば」と言われても

原作第17話で、天文研究所の所長ピャスト伯は、研究者たちを前に「イカロスにならねば」と語ります。

イカロス。

この名前を聞いた瞬間、ある歌が頭の中に勝手に流れ出す世代が、日本にはけっこういるのではないでしょうか。

NHK「みんなのうた」で放送された「勇気一つを友にして」です。1975年に初放送され、片岡輝さんが作詞、越部信義さんが作曲しました。学校で歌ったという方も多いでしょう。

私は1981年生まれです。この世代の人間に「イカロス」「蝋の翼」「太陽」という三つの単語を投げると、かなりの確率であの少し物悲しい旋律が脳内再生されます。完全におっさんホイホイです。もとい、同世代ホイホイです。

ですから、原作第17話を読んでピャスト伯がイカロスを持ち出したとき、私はギリシャ神話の原典より先に「みんなのうた」を思い出しました。おそらく私だけではないでしょう。若い読者にはギリシャ神話の有名人でも、私たちの世代には「NHKで歌った、落ちる人」なのです。

歌の中のイカロスは、蝋で固めた鳥の羽をつけ、太陽を目指して飛びます。翼は溶け、海へ落ち、命を失います。それでも歌は、彼を単なる失敗者として終わらせません。後に続く者たちが、その勇気を受け継いで未来へ進むのです。

子どものころは「なるほど。失敗しても挑戦したイカロスは偉いんだ」と思っていました。

ところが、です。

ギリシャ神話をちゃんと読んでみると、どうも話が違います。

イカロスは「勇気の人」だったのか

イカロスの父ダイダロスは、クレタ島の王ミノスに仕えた伝説的な名工です。怪物ミノタウロスを閉じ込めるための迷宮、いわゆるラビリントスを造った人物でもあります。

ところが事情があって、ダイダロスと息子イカロスはクレタ島から出られなくなります。そこでダイダロスは、鳥の羽を蝋でつなぎ合わせ、自分と息子のために翼を作りました。

このあたり、さすが伝説の発明家です。海が駄目なら空から逃げる。発想がもう宮崎駿作品です。

しかし、出発前に父は息子へ注意します。

高く飛びすぎると、太陽の熱で蝋が傷む。けれども、低く飛びすぎても、海の湿気で翼が重くなる。だから自分の後について、中ほどを飛びなさい、と。

これ、けっこう肝要です。

よく知られているのは「太陽へ近づきすぎるな」という上限だけです。しかし、オウィディウスの『変身物語』では、低すぎても駄目だと警告されています。求められているのは、地面にしがみつく臆病さでも、太陽へ突進する無謀さでもありません。両極端を避け、父の導きに従うことです。

ところがイカロスは、飛べる喜びに夢中になり、父から離れて高く上がってしまいます。そして蝋が溶け、羽が散り、海へ落ちて死にます。

つまり、もともとの物語でイカロスは、少なくとも単純な「勇気ある挑戦者」ではありません。忠告を忘れ、自分の能力と道具の限界を見失った若者です。一般には、人間の思い上がりや、行き過ぎた野心を戒める物語として読まれてきました。

そう考えると、「その勇気を受け継ごう」という歌の結論には、ちょっと待ってください、と言いたくなります。

受け継ぐの、そこですか。

蝋が溶けると知りながら太陽へ行く勇気は、勇気というより無知の蛮勇です。学校であの歌を元気よく歌っていた私たちは、もしかしてイカロスを誤解していたのでしょうか。

しかし、歌は「誤訳」なのか

ただし、私はこの歌を「ギリシャ神話を間違えた歌」と切り捨てたくありません。

実はここが面白いのです。

神話は、時代を越えて語り直されるたびに、少しずつ意味を変えます。ある時代には傲慢への警告として読まれ、別の時代には未知へ挑んだ先駆者の物語として読まれる。イカロスは、愚かな少年にもなれば、人間の可能性に命を賭けた象徴にもなります。

「勇気一つを友にして」は、神話を忠実に要約する歌ではありません。失敗した人の試みを、次の世代が無駄にしないという歌です。

イカロス本人の判断は間違っていた。それでも、人が空を飛びたいと願ったことまで間違いだったのか。彼が落ちたのを見て「ほら見ろ、人間は地上を歩いていればよい」と終わるのか。それとも、なぜ落ちたのかを考え、今度は落ちない翼を作るのか。

この歌は後者を選びました。

ですから、誤解というより、意図的な読み替えと呼ぶ方がよいでしょう。神話が語った「限界を忘れるな」を消してしまう危うさはあります。しかし同時に、「失敗した挑戦を次の挑戦へつなぐ」という、近代的な希望を神話に書き加えたのです。

魚豊先生も「みんなのうた」を孫引きした?

ここで一つ、あくまで私の推測を申し上げます。

魚豊先生も、イカロス神話そのものだけでなく、「勇気一つを友にして」によって日本人の中に定着したイカロス像を、どこかで踏まえているのではないでしょうか。

もちろん、作者ご本人がそう明言した資料を私は知りません。ですから「元ネタはこの歌です」と断定することはできません。魚豊先生がオウィディウスなどの原典や神話事典から直接着想した可能性も、当然あります。

しかし、原作第17話のイカロスは、単なる「父の忠告を無視して墜落した愚かな若者」ではありません。失敗してもなお真理へ向かう者、次の世代がその挑戦を引き継ぐ者として語られます。これは、イカロスを失敗者で終わらせず、その勇気を後世の人間が受け継ぐ「勇気一つを友にして」の構図と、かなりよく似ています。

言うなれば、ギリシャ神話を直接引用したというより、ギリシャ神話を日本の「みんなのうた」が一度読み替え、その読み替えられたイカロス像を『チ。』がさらに読み替えた。神話の孫引きです。

ただし、ここでいう「孫引き」は批判ではありません。文化というものは、たいていこうして伝わります。私たちだって、ギリシャ神話を古代ギリシャ語やラテン語で読んで知ったわけではありません。児童書、マンガ、ゲーム、歌などを通して知りました。ペルセウスもメデューサも、場合によっては『聖闘士星矢』や『ファイナルファンタジー』から知った人の方が多いでしょう。私も人のことは言えません。

古代の神話がNHKの子どもの歌になり、その歌でイカロスを覚えた世代がマンガを読み、今度は『チ。』を通して若い世代がイカロスを知る。この文化のバトンリレー自体が、まるで「勇気一つを友にして」の結末のようです。

ピャスト伯は、さらに神話を書き換える

そして『チ。』のピャスト伯も、イカロス神話をそのまま受け取ってはいません。

彼の解釈では、イカロスの誤りは太陽に挑んだことそのものではなく、蝋が溶けるという父の警告を軽んじた無知にあります。蝋の翼が駄目なら、もっと強い翼を作ればよい。それでも太陽、すなわち真理を目指し続ける。研究者に今足りないのは、その一歩を踏み出す無謀さなのだ、と語ります。

いや、鋼の翼を人間の腕で羽ばたかせたら、それはそれで飛べないやろ、という科学的なツッコミはひとまず置いておきましょう。もとい、これはもちろん比喩です。

ピャスト伯の読み方は、「勇気一つを友にして」とよく似ています。失敗したのだから飛ぶことをやめるのではない。失敗の原因を調べ、道具を改良し、もう一度挑む。科学の歴史とは、まさにその繰り返しでした。

しかも、この言葉を立派な男性研究者ではなく、研究所の片隅で聞いているのがヨレンタです。

彼女は才能がありながら、女性であるという理由で、自分の名前で研究成果を発表することすら難しい立場に置かれています。地動説の研究へ加わることは、思想上の危険だけでなく、当時の女性に期待された役割からも飛び出すことでした。

ヨレンタにとって「イカロスにならねば」は、抽象的な研究者精神ではありません。自分を地上へ縛りつけている社会から飛び立て、という言葉として響きます。

この場面、本当にうまくできています。

ピャスト伯は研究者全体に向かって語っている。しかし、その言葉を最も切実に必要としていた一人の女性に届く。しかも、その直前まで彼女は、危険な研究に関わるべきか迷っています。神話の中では父の忠告を無視したイカロスが、『チ。』では古い常識を超える決断の象徴に変わるのです。

このあたりに、作者の魚豊先生の考証の深さと、物語の組み立ての巧さを感じます。このマンガ、凄くないですか?

聖書は「高く飛ぶこと」を禁じるのか

では、本物のキリスト教の牧師である私が、ここを少しだけ神学してみます。

聖書にも、人間が高みを目指して失敗する話があります。代表的なのは、創世記11章のバベルの塔でしょう。人々は天まで届く塔を建て、自分たちの名を上げようとしました。そして神は、その企てをそのままにはされませんでした。

ただし、聖書は「高い建物を造ったから神が怒った」と単純に教えているのではありません。問題は建築技術ではなく、神から託された使命より、自分たちの名と結束を優先した心です。

聖書は、未知を調べることや、技術を進歩させること自体を罪とはしていません。箴言25章2節には、隠された事柄を探究することを王の誉れとする言葉があります。天地を造られた神を信じるからこそ、世界には秩序があり、調べる価値がある。その確信が科学研究を励ましてきた面もあります。

一方で、聖書は勇気と無謀を同じものにもしません。

荒れ野で悪魔はイエスに、神殿の屋根から飛び降りて、神が助けるか試してみろと誘惑しました。しかも悪魔は聖書の言葉まで引用します。それに対してイエスは、「あなたの神である主を試してはならない」と退けました(マタイ4章5~7節)。

飛び降りる度胸があれば信仰深い、とはならないのです。

信仰とは、根拠もなく危険へ突っ込むことではありません。神を信頼することと、自分の無謀を神に尻拭いさせることは違います。勇気には、何のために飛ぶのか、何を信じて飛ぶのか、そして翼は本当に飛べるものなのかを見極める知恵が必要です。

これは教会にも通じます。「信仰によって挑戦します」と言えば、無計画でも許されるわけではありません。会堂建築でも、新しい伝道でも、財政でも、祈りながら計算し、人の忠告を聞き、必要なら計画を修正する。蝋が溶けると教えられているのに、そのまま太陽へ行くことを信仰とは呼べません。

しかし同時に、失敗を恐れて一度も地面から離れないことも、信仰ではありません。

必要なのは、蝋の翼を神格化しない勇気

イカロス神話は「高く飛びすぎるな」と警告します。「勇気一つを友にして」は「それでも飛ぼう」と歌います。そしてピャスト伯は「失敗の原因を知り、次の翼を作れ」と読み替えます。

私は、この三つの声をどれか一つに決めなくてもよいと思います。

限界を知らない挑戦は、人を墜落させます。しかし、失敗を恐れるだけでは、新しいものは何も生まれません。そして本当に必要なのは、昔の翼にしがみつくことでも、同じ蝋の翼でもう一度飛ぶことでもなく、なぜ落ちたのかを正直に認め、より確かな翼を作ることです。

それは研究にも、信仰にも言えることではないでしょうか。

教会は時に、昔から使ってきた方法を、まるで神から与えられた翼そのもののように扱います。しかし、守るべきなのは蝋の翼ではなく、真理を求める姿勢です。方法が限界を迎えたなら、方法は変えてよい。人間の伝統と神の真理を混同してはいけません。

だから、イカロスの勇気をそのまま真似る必要はありません。しかし、彼の墜落を見てもなお空を見上げ、次の翼を考える勇気なら、私たちは受け継いでもよいのだと思います。

ピャスト伯の言葉を聞いたヨレンタは、これからどこへ飛び立つのでしょうか。その行方を見守りながら、次回は、彼女たちが受け継ごうとしていた古代の天文学について少し寄り道してみたいと思います。

コメント

タイトルとURLをコピーしました