申命記6章4~9節 年十二回で学ぶモーセ五書 信仰をケータイしよう 聞け、イスラエル
1. 信仰もケータイしていますか
皆さんは、家を出てしばらくしてから、携帯電話を忘れたことに気づいたら、どうなさいますか。時間があれば、取りに戻る方が多いでしょう。電話だけでなく、地図も、乗車券も、お財布まで入っている。手元にないと、どうにも落ち着かない。それほど身近なものになりました。
では、信仰はどうでしょうか。日曜日には教会へ持ってきたけれども、帰るときには礼拝堂に置いてきてしまう。月曜日から土曜日までは、神様のことをほとんど思い出さない。そんなことはないでしょうか。今日は「信仰をケータイしよう」という題で、申命記から御言葉を聞きたいと思います。
2. 小さな箱に納められた御言葉
週報の表紙の写真をご覧ください。少年の頭に、黒い箱が付いていますね。腕にも黒い革ひもが巻かれ、大人が手元を手伝っています。これはテフィリンと呼ばれる、ユダヤ教の祈りのための装具です。聖句を記した羊皮紙を、小さな革の箱に納め、頭と腕に着けるのです。
ユダヤ教では、男子は13歳になると、神の戒めを守る責任を担う者として、バル・ミツワーと呼ばれる節目を迎えます。こうした姿は、その成人を祝う場面でも見られます。写真もそのような場面と考えられますが、テフィリン自体は、平日の朝の祈りでも用いられます。
では、箱の中には、どこが入っているのでしょうか。出エジプト記13章1~10節と11~16節。そして申命記6章4~9節、11章13~21節。この4つの段落です。今日、私たちが読んだ聖書の箇所も、あの小さな箱の中に納められているのです。
なぜ、頭と腕なのでしょうか。今日の8節に、神の言葉を手に結び、額に付けるようにとの命令があるからです。神様の言葉を忘れず、思いも行いも主に向けて生きる。そのことを、体を使って覚える実践なのですね。写真を眺めていると、聖書の言葉が今も人々の暮らしにつながっていることが分かります。
3. 主の言葉を聞き、主を愛する
さて、私たちが今年学んでいるモーセ五書の流れを、少し思い出しましょう。イスラエルの民は、エジプトで奴隷として苦しんでいました。神様は彼らを救い出し、御自分の民として導かれました。けれども、荒野の旅では、不平も不信仰も繰り返されました。
申命記は、その民が約束の地を前にして、モーセの言葉を聞いている場面です。これから新しい土地で暮らしが始まる。家を構え、畑を耕し、子どもたちを育てていく。その毎日の中で、どうすれば、自分たちを救ってくださった主と共に歩み続けられるのでしょうか。
苦しいときには、神様に助けを求めます。ところが、暮らしが落ち着くと、すべて自分の力で手に入れたように思ってしまうことがあります。この章の後半には、生活が豊かになったとき、エジプトから救い出してくださった主を忘れないようにという警告があります。モーセは、生活の中で信仰が薄れていく危うさを見据えているのです。
その呼びかけは、4節の「聞け、イスラエルよ。」から始まります。まず、耳を傾ける。自分の都合や思い込みで神様を決めてしまう前に、神様が何を語っておられるのかを聞くのです。信仰生活は、神様のお話を聞くところから始まります。
聞いているつもりでも、自分に都合のよい言葉だけを拾ってしまうことがあります。慰めの言葉にはうなずくけれども、自分の間違いを示されると、耳が痛くなる。それでも、私たちを愛して語られる主を信頼して、耳を傾けたいのです。御言葉に自分の歩みを照らしていただくところに、聞く者の応答があります。
そこで告白されるのは、自分たちの神である主が、唯一の主であるということです。あれもこれも頼りにして、最後に神様も加えておこう、というのではありません。自分たちを救い、導いてくださったこの主に、生活の中心にいていただくのです。
お金が増えれば安心できる。人から認められれば、自分には価値がある。私たちは、いつの間にか、そうしたものに心を支配されます。お金も評価も生活に関わるものですが、それらに人生の主人の席を渡してしまうと、失うことが怖くなります。主が私たちの神であるという告白は、何に自分を委ねて生きるのかを、繰り返し問い直す言葉なのです。
そして5節は、心も魂も力も尽くして、自分たちの神である主を愛するように命じます。ずいぶん大きな命令ですね。日曜日の1時間だけでは収まりません。頭の中の知識にも収まりません。時間も、お金も、人との関わりも含め、私という人間の全体が、この主との関係の中に置かれるのです。
だからこそ、イエス様も、最も重要な戒めを尋ねられたとき、この箇所を引用なさいました。マルコによる福音書12章です。そして、隣人を自分のように愛するというレビ記の言葉を続けられました。神様を愛することは、目の前の人との関わりにも表れていくのです。
4. 頭に着ければ、守ったことになるのか
ここで、先ほどのテフィリンに戻りましょう。私たちは、形だけテフィリンを頭につければ、この御言葉を守ったことになるのでしょうか。いや、違います。頭に箱を載せていても、その頭の中では、人を見下したり、自分の利益ばかり考えたりしている。手に御言葉を結んでいても、その手で人を傷つける。それで、この命令に従ったと言えるでしょうか。
テフィリンは、神様の言葉を忘れないための大切なしるしです。そして、そのしるしが指し示している、神様への愛と従順が問われています。私たちクリスチャンも、この問いを自分自身に向けて聞かなければなりません。
私たちは普通、あの箱を身に着けません。その代わり、聖書を持っています。スマートフォンに聖書アプリを入れている方もおられるでしょう。けれども、持っていることだけで安心してしまってはいないでしょうか。聖書をダウンロードしたら、自動的に信仰までインストールされる。そんな便利な話やったら、苦労せえへんのです。
6節は、神様の言葉を「心に留め」と命じています。手や額に結ぶ命令の前に、この言葉があります。心に迎えた御言葉を、見えるしるしによっても思い起こす。私たちも、この順序を大切にしたいのです。
声に出して読むことも、決まった時間に祈ることも、礼拝に集まることも、心を御言葉へ向ける助けになります。私たちは体をもって生きていますから、生活の中に具体的な習慣を作ることには意味があります。その習慣を通して、今日も主の呼びかけを聞き直していくのです。
5. 御言葉を心に蓄える
その具体的な方法の1つが、暗唱聖句です。聖書の言葉を、声に出して読み、繰り返して覚える。自分の頭の中に入れておくのです。教会学校で覚えた御言葉を、何十年たっても思い出す、という方もおられるのではないでしょうか。
もちろん、分からないことは聖書を開いて確かめればよいのです。調べることも大切です。そのうえで、覚えている御言葉には、今、この場で思い起こせるという恵みがあります。腹が立った瞬間、不安で眠れない夜、誰にも助けを求められないように感じるとき。心の中に、神様の言葉がよみがえってくるのです。
私たちの心には、日々、たくさんの言葉が入ってきます。人から言われた嫌な一言を、何年も覚えていることがあります。まだ起きていないことまで心配して、頭の中で繰り返してしまうこともあります。そこへ、神様の言葉にも居場所を用意していこうではありませんか。
暗唱するときには、その御言葉が誰に、どのような場面で語られたのかも、少しずつ確かめたいと思います。前後を読んで意味を知り、自分の祈りにしてみる。そうすると、1つの聖句が、困っている自分を慰めるだけでなく、自分の考えを正してくれる言葉にもなります。
ただし、覚えた聖句の数で、神様からの愛情が増えたり減ったりするわけではありません。年齢を重ねて、前のようには覚えられないこともあるでしょう。病気や疲れで、言葉が出てこない日もあります。私たちが思い出せないときにも、主は私たちを覚えていてくださいます。安心して、1つの言葉に何度でも立ち返ればよいのです。
6. 救いの恵みが先にある
ここは、ぜひ押さえておきたいところです。神様は、十分に覚え、十分に従えるようになった人を、初めて救おうとなさったのでしょうか。モーセ五書で見てきた順序は、どうだったでしょうか。神様が先に奴隷の民を救い出し、それから、その民の生きる道を教えてくださったのです。
この章の20節以下では、子どもが戒めの意味を尋ねたとき、親は、エジプトで奴隷だった自分たちを主が救い出してくださったことから語るように勧められています。なぜ御言葉に従うのか。その答えの土台に、救ってくださった主の恵みがあるのです。
私たちにとって、その恵みがはっきり示されたのが、イエス・キリストの十字架です。神様を愛すると言いながら、自分の思いを優先してしまう私たち。愛するべき人を傷つけ、正しいと知りながら行えない私たち。その罪を、イエス様は御自分の身に負ってくださいました。
ヨハネの手紙一の4章10節は、神様の愛を、御子が私たちの罪を償うために遣わされたことによって説明しています。私たちが立派な信仰を見せる前に、神様が愛してくださった。十字架にかかり、復活された救い主を信じる者に、赦しと新しい命が与えられるのです。
私たちは、つい、できなかったことばかり数えてしまいます。今日も祈れなかった。今日も優しくできなかった。そんな自分が、神様を愛するなどと言ってよいのだろうか。しかし、その私たちのためにこそ、キリストは来てくださいました。罪を告白して、赦しを受け取り、もう1度歩み始めることができます。
この愛を知るとき、御言葉を聞く心が育てられていきます。私を救ってくださった方が、何を喜ばれるのかを知りたい。つらいときにも、あの方の約束を思い出したい。自分の都合で人を傷つけそうなとき、主に立ち止まらせていただきたい。暗唱聖句も、そうした主との交わりの中に置いていくのです。
7. 御言葉を日々の暮らしへ
では、御言葉を携える生活は、どこで営まれるのでしょうか。7節には、家にいるとき、道を行くとき、寝るとき、起きるときが挙げられています。特別な宗教行事だけを並べているのではありません。毎日の暮らしの、ありふれた時間が挙げられています。
朝、目が覚めたときに、1節を思い出す。出かける前に、今日会う人のために祈る。腹の立つ連絡が届いたら、返信する前に、主はこの人をどう見ておられるだろうと考える。夜には、1日の失敗を神様に申し上げ、恵みを感謝して休む。御言葉を携える歩みは、そうした小さなところから始められます。
手に結ぶという言葉を聞くときには、この手を何のために使うのかを考えたいと思います。人を押しのける手にもなれば、困っている人を支える手にもなります。額に付けるという言葉を聞くときには、自分の考えを、神様の言葉によって吟味していただきたい。目に見えるしるしは、思いと行いの両方を主に向けることを、私たちに問いかけています。
9節では、家の戸口や門にも書き記すように命じられます。家を出入りするところにも、共同体の生活の場にも、神様の言葉を置く。家庭での顔と、外での顔が、まるで別人になってしまう私たちの生活にも、主の言葉を迎えていきたいと思うのです。
8. 次の世代へ、共に伝える
そして7節には、子どもたちに教えることも命じられています。その前に、大人自身が御言葉を心に留めることが置かれています。私たちが自分では聞こうとせず、子どもにだけ教え込もうとしても、なかなか伝わりません。共に聞き、共に祈る姿が大切なのです。
大人はいつも正しい、という姿を見せる必要はありません。間違えたときに、先ほどの言い方は悪かったね、ごめんね、と謝る。困ったときには、一緒に神様に祈ろう、と声をかける。分からないことは、分からないから一緒に聖書を読んでみよう、と言う。そんな姿を通して、神様に頼って生きることが伝わっていきます。
また、この務めを、親だけの肩に載せてしまう必要もありません。教会には、さまざまな世代と立場の人がいます。子どもの名前を覚えて祈る人がいる。話を聞いてくれる人がいる。神様に支えられた経験を語る人がいる。そうやって教会全体で、次の世代を迎え、御言葉を分かち合っていくことができるのです。
そもそも、最初の呼びかけは、イスラエルという民全体に向けられています。主は、共に礼拝する私たちの神です。ある人が弱って祈れないときには、ほかの人がその人のために祈る。自分1人では思い出せない恵みを、兄弟姉妹の言葉によって思い出させていただく。信仰を携えて生きる私たちには、共に歩く仲間も与えられています。
写真の少年のそばには、装着を手伝う大人がいます。信仰を学ぶときにも、そばで支えてくれる人がいることは恵みです。私たちも誰かに教わり、祈っていただきながら、今日まで歩んできました。その恵みを、今度は誰かと分かち合うことができます。
9. この1週間、信仰をケータイしよう
今日、家に帰るとき、週報も持って帰ってください。写真をもう1度見て、あの箱の中にも今日の御言葉が入っているのだと思い出してください。そして、今日の箇所から1節を選び、ゆっくり声に出して読んでみましょう。明日の朝にも、もう1度読んでみる。そこから始めればよいのです。
1人ひとり、今日覚えた御言葉を用いて、今週出会う誰かのためにも祈ってみましょう。その言葉が自分を支え、人を愛する力となるように、主の助けを求めながら歩んでいくのです。
主は、私たちを救い、日々を共に歩んでくださる方です。その主の言葉を、心に迎えましょう。家庭へ、仕事へ、人との出会いへと携えていきましょう。信仰をケータイしよう。私たちを先に愛してくださった主に応えて、この1週間を歩んでまいりましょう。


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