ルカの福音書23章50~56節「キリストの埋葬と精一杯の信仰告白」

ルカの福音書23章50~56節「キリストの埋葬と精一杯の信仰告白」(2026-03-29 礼拝説教) 説教

ルカの福音書23章50~56節「キリストの埋葬と精一杯の信仰告白」

 今日の箇所は、十字架の直後、復活の直前です。いわば、金曜日の夕暮れと日曜日の朝のあいだに置かれた、重く、静かな場面です。説教を聞く側からすると、この箇所は飛ばしたくなるところかもしれません。十字架までは劇的です。復活も劇的です。けれど、そのあいだの「埋葬」は地味です。暗いです。希望が見えにくいです。

 しかし、教会は昔から、ここを飛ばしてきませんでした。使徒信条でも、主イエスは「十字架につけられ、死にて葬られ」と告白されます。つまり、埋葬は福音の付録ではないのです。キリストが葬られたということ自体が、私たちの救いにとって大切な意味を持っています。

 そしてこの箇所には、もう一つ大切なことがあります。それは、大きくて立派な信仰告白ではなく、ぎりぎりのところでようやく差し出された、精一杯の信仰告白が記されているということです。アリマタヤのヨセフ、ニコデモ、そしてガリラヤから従って来た女たち。彼らはこの時、華々しい勝利の信仰を示したのではありません。むしろ、すべてが終わったように見える時に、それでも主イエスを見捨てきれない心を、行動で示したのです。

 今日はこの箇所から三つのことを見たいと思います。

Ⅰ.キリストの埋葬は、敗北ではなく、預言の成就でした

 ルカはここで、アリマタヤのヨセフという人を丁寧に紹介しています。「議員」であり、「善良な正しい人」であり、しかも「彼らの決議や行動には同意していなかった」とあります。つまり、イエスを死に渡した側に属していながら、その罪に心からは加わっていなかった人です。そして彼は「神の国を待ち望んでいた」とあります。

 このヨセフがピラトのところへ行き、イエスの遺体を下げ渡してほしいと願い出ました。並行箇所のマルコによれば、彼は「思い切って」ピラトのもとへ行ったのです(マルコ15:43)。ここにすでに告白があります。主イエスが生きておられた時には、多くの人が離れていきました。弟子たちも散りました。けれどヨセフは、十字架で処刑された主の亡骸を自分が引き取るという、きわめて危険で、きわめて重い行動に出たのです。

 そして彼は遺体を亜麻布に包み、「まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓」に納めました。マタイ福音書を見ると、その墓はヨセフ自身の新しい墓であったことがわかります(マタイ27:60)。つまり主イエスは、犯罪人として処刑されながら、金持ちの墓に葬られたのです。

 これは偶然ではありません。イザヤ書53章9節には、苦難の僕についてこうあります。
 「彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、その墓は悪人と共にされ、富める者と共に葬られた。」

 十字架で死ぬこと自体が預言の成就でしたが、どのように葬られるかという細部に至るまで、神の御計画のうちにありました。人の目には「もう終わった」としか見えない場面で、神は一つ一つご自身のことばを実現しておられるのです。

 私たちはよく、「神の御業」は派手なところにしかないと思ってしまいます。大逆転、奇跡、目に見える成功。けれど聖書は言います。神は、墓に運ばれていくキリストの沈黙の中でも働いておられる。いや、むしろそこにおいてこそ、もっとも深い意味で働いておられるのです。

 兄弟姉妹、私たちの人生にも「埋葬の時間」があります。祈っても何も起こらないように見える時。約束が土の中に埋められたように思える時。終わった、としか言えない夕暮れ。けれどその時も、神の御手は止まっていません。神は、私たちが敗北と呼ぶ場面で、預言を成就される方です。

Ⅱ.ヨセフとニコデモの埋葬の申し出は、彼らなりの精一杯の信仰告白でした

 ヨハネ福音書を読むと、ここにもう一人の人物が出てきます。ニコデモです(ヨハネ19:39)。あのヨハネ3章で、夜、イエスのもとにやって来たニコデモです。ヨハネ7章では、議会の中でイエスに少し弁護めいたことを言ったあのニコデモです。そしてヨハネ19章では、没薬と沈香を混ぜたものを百リトラほど持って来ます。王の葬りにも匹敵するほどの大量の香料です。

 ここで見えてくるのは、ヨセフもニコデモも、最初から堂々たる弟子ではなかったということです。ヨハネはヨセフについて、「ユダヤ人を恐れてひそかにイエスの弟子となっていた」と記します(ヨハネ19:38)。ニコデモも、最初は夜に来ました。人目を避けて来たのです。

 言ってしまえば、二人とも「遅い」のです。もっと早く公に立てなかったのか。十字架に向かう前に、なぜもっとはっきり告白しなかったのか。そう問いたくもなります。

 けれど聖書は、その「遅さ」をただ責めるだけではありません。むしろここで、彼らの遅れてきた告白を丁寧に記しているのです。

 不思議です。主が病人を癒やし、群衆に囲まれ、権威あることばを語っていた時には、彼らは表立って立てなかった。けれど、主が十字架で死なれ、もはや何の得も見込めず、世間から見れば完全な敗者となった時に、彼らは前に出て来たのです。

 これは何を意味するでしょうか。彼らはこの時、自分の立場も、名誉も、安全もかなぐり捨てて、「私はこの方に関わる者です」と言ったのです。口先ではなく、行動で言ったのです。
 “この方が敗北者に見えても、私はこの方を引き取ります。”
 “この方が十字架刑の死体として扱われても、私はこの方を王のように葬ります。”
 それが、彼らなりの精一杯の信仰告白でした。

 ここに慰めがあります。私たちの信仰も、いつも理想的ではありません。もっと早く告白すべきだったのに言えなかった。もっとはっきり立つべきだったのに逃げた。主が生きて働いておられる時に、そっと距離を置いてしまった。そういうことが私たちにもあります。

 しかし、それでもなお主は、遅れてきた告白を退けないのです。
 「今さら遅い」とは言われない。
 「もっと完璧な信仰を持ってから来なさい」とは言われない。
 「夜に来た者はもうだめだ」とは言われない。

 ヨセフとニコデモは、完璧な弟子ではありませんでした。けれど彼らは、最後の最後に、自分にできることをしました。遺体を願い出る。亜麻布を用意する。香料を持ってくる。墓を差し出す。これは華々しい働きではありません。説教ではない。奇跡でもない。けれど、愛する方のために自分が今できる最大限を差し出したのです。

 これが信仰です。信仰とは、いつも大演説ではありません。時には、震える手で差し出す小さな従順です。時には、世間が見捨てたイエスのそばに立つことです。時には、何の見返りもないところで、「それでも私は主に属します」と態度で示すことです。

 そして主は、そのような精一杯を覚えていてくださいます。

Ⅲ.女たちもまた、精一杯の愛と信仰をもって主に仕えました

 ルカはさらに、ガリラヤからイエスに従って来た女たちのことを記します。彼女たちは、墓を見、遺体がどのように納められたかを見届けました。そして家に帰って香料と香油を準備しました。しかし安息日なので、掟に従って休みました。

 この箇所も大切です。彼女たちはまだ復活を理解していません。「三日目によみがえる」と主が語られたことを、この時点ではつかみ切れていません。だからこそ香料を用意するのです。つまり彼女たちもまた、主の死を本当の死として受け止めているのです。

 けれどそれでも、主から離れません。墓を確認します。遺体の場所を見届けます。そしてできるかぎり丁寧に葬ろうと準備します。

 ここにも、精一杯の信仰があります。彼女たちはまだ十分わかっていません。理解は不完全です。復活信仰としてはまだ未完成です。けれど、愛があるのです。主を最後まで大切にしたいという思いがあるのです。

 私たちもそうではないでしょうか。全部はわからない。神のご計画も見えない。復活の朝が来ることを頭では知っていても、心はまだ金曜日の夕暮れのまま。そういうことがあります。けれどそのような中でも、主のもとを離れず、墓のありかを見失わず、できる準備をする。これは立派な信仰です。

 しかも彼女たちは安息日に休みました。悲しみが大きいからといって、神の戒めを投げ捨てたのではありません。泣きながらも、混乱の中でも、神のことばの下に自分を置いたのです。
 信仰とは、感情が高ぶっている時だけのものではありません。悲しみの中でなお、神のことばに従うことです。

Ⅳ.「葬られた」とは、キリストが本当に死なれたということです

 ここで福音の核心に触れなければなりません。主イエスが葬られたというのは、主が単に気絶していただけとか、仮死状態だったとか、いわゆる臨死体験から戻ったということでは、決してありません。

 聖書がここまで丁寧に埋葬を書くのは、主が完全に死なれたことを示すためです。マルコ福音書では、ピラトはイエスがもう死んだのかと驚き、百人隊長に確かめています(マルコ15:44-45)。ヨハネ福音書では、兵士が槍でわき腹を刺したことも記されます(ヨハネ19:34)。女たちは遺体が墓に納められるのを見届けました。新しい墓に葬られました。これは仮死からの回復ではありません。本当の死です。

 では、なぜそこまで完全に死なれる必要があったのでしょうか。なぜ神の子は、そこまで深く死に下って行かれなければならなかったのでしょうか。

 それは、罪の報酬が死だからです。罪の問題が本当に解決されるためには、罪の刑罰が本当に負われなければなりません。キリストがただ苦しみを“演じた”だけなら、救いは成立しません。キリストが死の入り口まで行って引き返しただけなら、まだ人類の負債は残っています。

 主イエスは、罪を犯したことのないお方です。しかし十字架において、罪人の身代わりとして立たれました。そして「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。これは、父と子の神としての本質的な一致が壊れた、という意味ではありません。三位一体の神が分裂したのではないのです。そうではなく、救い主として、仲保者として、罪を負う者として、私たちが本来受けるべき神の裁きと見捨てられを、その身に引き受けられたのです。

 父なる神は、罪なき御子を、私たちの罪を担う者としてさばかれました。御子は、私たちが立つべき断罪の場所に立ってくださいました。だからこそ、キリストにある者には、もはや罪の刑罰が残らないのです。
 主は、死を少しかじったのではありません。
 墓を少しのぞいただけではありません。
 私たちが行くはずの一番深いところまで、ほんとうに行ってくださったのです。

 だからキリスト者にとって墓は、もはや絶望の終点ではありません。主が先に入ってくださった場所です。主が三日目によみがえられたゆえに、墓は最後の勝利者ではなくなりました。

結び.あなたの「精一杯の信仰告白」を主は軽んじられません

 今日の箇所には、輝かしい勝利の弟子たちは出てきません。大胆に説教するペトロもいません。群衆を前にした奇跡もありません。あるのは、夕暮れです。墓です。香料です。亜麻布です。そして、遅れてきた、控えめな、しかし本物の告白です。

 ヨセフは墓を差し出しました。
 ニコデモは香料を持って来ました。
 女たちは墓を見届け、香油を整えました。

 どれも、派手ではありません。けれど主は、そのような精一杯を、聖書に記して残してくださいました。

 ですから私たちも問われます。
 今の自分にできる、精一杯の信仰告白は何でしょうか。
 職場で、家庭で、地域で、世間が十字架のキリストを価値のないものと見る時に、それでも「私はこの方に属します」と示すことではないでしょうか。
 疲れ切っていても礼拝に身を置くことかもしれません。
 不安の中でも祈ることかもしれません。
 恥ずかしくても、主の名を隠し切らないことかもしれません。
 あるいは、何もできないような時に、ただ主のそばを離れないことかもしれません。

 主は、そのような小さな忠実さを喜んでくださいます。

 そして何より、私たちの希望は私たちの信仰の大きさにあるのではありません。ほんとうに死なれ、ほんとうに葬られ、そしてほんとうによみがえられたキリストにあります。

 この主があなたのために墓に入ってくださいました。
 あなたが受けるべき刑罰を引き受けてくださいました。
 あなたが恐れる死の深みにまで降りてくださいました。
 だから、あなたは見捨てられません。
 だから、あなたの罪は赦されます。
 だから、あなたの墓も終わりではありません。

 金曜日の夕暮れがどれほど暗くても、日曜日の朝は来ます。
 埋葬は終わりに見えて、終わりではありません。
 キリストが葬られたからこそ、復活は作り話ではなく、本当の勝利なのです。

 この葬られた主を、そして復活された主を、今日もう一度見上げましょう。
 そして私たちも、それぞれの場所で、それぞれのかたちで、
 精一杯の信仰告白をささげる者とされたいと思います。

サムネイルは カラヴァジョ作「キリストの埋葬」

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