使徒2章1~13節 ペンテコステー教会の誕生日

説教

使徒2章1~13節 ペンテコステー教会の誕生日

今日はペンテコステです。よく「教会の誕生日」と言われます。誕生日というと、ケーキがあって、ろうそくがあって、プレゼントがあって、「ハッピーバースデー」と歌います。けれども教会の誕生日は、少し不思議です。ろうそくを吹き消すのではなく、炎のような舌が一人ひとりの上にとどまりました。プレゼントをもらうのではなく、聖霊という神からの賜物が与えられました。そして「おめでとう、教会」と祝うだけでなく、「さあ、出て行って福音を語りなさい」と送り出される日でした。

ですからペンテコステは、ただの記念日ではありません。教会の原点です。教会とは何か。なぜ私たちは集まるのか。何を語るためにここにいるのか。その答えが、この使徒言行録二章にあります。

1、教会は、人間の熱心ではなく、神の約束から始まった

使徒言行録二章一節には、「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」とあります。五旬祭とは、過越祭から五十日目に祝われるユダヤの祭りです。収穫を感謝する祭りであり、また伝統的にはシナイ山で律法が与えられたことを覚える日とも結びついていました。

その日に、弟子たちは集まっていました。では、彼らは何をしていたのでしょうか。大作戦会議をしていたのでしょうか。「イエス様は天に帰られた。さあ、これからどうやって勢力を拡大しようか。まずSNS戦略を立てよう。チラシは何枚刷るか。集会名はキャッチーな方がいいか」などと話し合っていたのでしょうか。もちろん、そんなことは書いてありません。

彼らは待っていたのです。イエス様が約束された聖霊を待っていました。

ここが大事です。教会は、人間が「よし、宗教団体を作ろう」と思いついて始めたものではありません。弟子たちの勇気から始まったのでもありません。ペテロのリーダーシップから始まったのでもありません。もちろん、それらも用いられます。しかし根本的には、教会は神の約束から始まりました。

私たちはすぐに思います。「教会を元気にするにはどうしたらよいか」「人を集めるにはどうしたらよいか」「若い人に来てもらうにはどうしたらよいか」。それは大切な問いです。けれども、教会の出発点はそこではありません。教会は、神が約束を守られるところから始まるのです。

聖霊は、弟子たちが気合いで呼び寄せた力ではありません。祈り倒して、努力して、ようやく手に入れた特殊能力でもありません。聖霊は、復活し、天に上げられたキリストが、ご自分の民に注がれた神の賜物です。

ここに福音があります。私たちの信仰生活も、私たちの熱心から始まるのではありません。神の恵みから始まります。私たちが神をつかまえたのではなく、神が私たちをつかまえてくださった。私たちが立派だから教会にいるのではなく、キリストが罪人を招いてくださったから、私たちはここにいるのです。

教会の誕生日とは、「私たちが頑張って教会を作りました」という日ではありません。「神が約束を守ってくださった」という日です。

2、聖霊は、閉じこもった弟子たちを福音の証人に変える

二節、三節には、不思議な出来事が記されています。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」

風、炎、舌。どれも聖書の中で神の臨在を思い起こさせるしるしです。風は霊の働きを思わせます。炎は神の聖さを思わせます。そして舌は言葉を思わせます。

ここで注目したいのは、聖霊が与えられた結果、弟子たちが何をしたかです。彼らはまず踊り出したのではありません。超人的な力を見せびらかしたのでもありません。彼らは「ほかの国々の言葉で話しだした」のです。

つまり聖霊は、弟子たちを「語る者」にしたのです。

これは本当に大きな変化です。少し前の弟子たちはどうだったでしょうか。イエス様が捕らえられたとき、彼らは逃げました。ペテロは「そんな人は知らない」と三度も否定しました。十字架の前で、彼らは沈黙しました。恐れ、隠れ、閉じこもっていたのです。

ところが聖霊が注がれると、その同じ弟子たちが、神の偉大な業を語り始めます。しかも、自分たちの内輪の言葉だけでなく、外から来た人々に届く言葉で語り始めたのです。

教会の力とは何でしょうか。立派な建物でしょうか。十分な予算でしょうか。人数でしょうか。もちろん、それらが与えられれば感謝です。しかし使徒言行録二章を見ると、教会の力はそこではありません。教会の力は、聖霊によってキリストを語る力です。

そしてこれは、牧師だけの話ではありません。「一人一人の上にとどまった」とあります。聖霊は、特別な数人だけに与えられたのではありません。教会に集められた一人ひとりに注がれました。

私たちは時々、「私は話すのが苦手です」「私は聖書に詳しくありません」「私はあの人みたいに立派な証しはできません」と思います。けれども聖霊は、口の達者な人だけを用いられるのではありません。ペテロだって、もともと立派だったわけではありません。むしろ失敗の多い人でした。けれども聖霊がその人を用いられるのです。

証しとは、神学論文を暗唱することではありません。もちろん学びは大事です。しかし証しの中心は、「神が私に何をしてくださったか」を語ることです。「私は罪人です。しかしキリストが私を赦してくださいました。私は弱い者です。しかし主が支えてくださいました。私は死に向かう者です。しかし復活の主がいのちを約束してくださいました。」これが証しです。

ペンテコステの日、教会は口を開きました。教会が誕生したということは、福音を語る民が誕生したということです。

3、福音は、すべての民の言葉へ向かって開かれている

五節以下を見ると、エルサレムには「天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人」が住んでいました。パルティア、メディア、エラム、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、リビア、ローマ、クレタ、アラビア。読み上げるだけでも、ちょっとした世界地図です。

その人々が驚きました。なぜなら、ガリラヤの人々が、自分たちの故郷の言葉で神の偉大な業を語っているのを聞いたからです。

ここにも大事な意味があります。聖霊は、みんなを一つの言語に統一したのではありません。「これからは全員、ガリラヤ語を覚えなさい」とはなさいませんでした。そうではなく、それぞれの民の言葉で福音が聞こえるようにされたのです。

これは創世記十一章のバベルの塔を思い出させます。人間は「我々は名を上げよう」として塔を建てました。神なしに一つになろうとしました。その結果、言葉は乱され、人々は散らされました。人間の罪は、人と人との間に壁を作ります。国の壁、文化の壁、言葉の壁、身分の壁、世代の壁、心の壁です。

しかしペンテコステの日、神はその壁を越えて福音を届けられました。バベルでは、人間の高ぶりによって言葉が分裂しました。ペンテコステでは、神の恵みによって、さまざまな言葉の中で福音が聞こえました。

教会とは、みんなが同じになる場所ではありません。年齢も違う。育った環境も違う。考え方も違う。好きな音楽も違う。ある人は讃美歌が大好きで、ある人はワーシップソングが好きで、ある人は「どちらでもいいから、早く昼ご飯に行きたい」と思っているかもしれません。けれども、その違いを消すことで一つになるのではありません。キリストにあって一つにされるのです。

福音は、特定の文化だけのものではありません。ユダヤ人だけのものでも、ヨーロッパ人だけのものでも、日本人だけのものでもありません。福音は、すべての民のための知らせです。だから教会は、自分たちの内輪の言葉だけで満足してはいけません。

「教会では通じるけれど、外の人には通じない言葉」というものがあります。「救われた」「恵まれた」「導かれた」「悔い改めた」。大切な言葉です。しかし、初めて教会に来た人には、案外わかりません。ペンテコステの出来事は、私たちに問いかけます。あなたの隣人に届く言葉で、福音を語っていますか。子どもに届く言葉で語っていますか。若者に届く言葉で語っていますか。傷ついている人、教会から遠ざかっている人、聖書を一度も開いたことのない人に届く言葉で語っていますか。

もちろん、福音の中身を薄めるということではありません。罪を罪と言わなくなることでもありません。十字架を隠すことでもありません。むしろ逆です。十字架と復活の福音を、相手に本当に届く言葉で語るのです。

神は、私たちに「教会用語の城壁の中にこもっていなさい」とは言われません。聖霊は、福音を世界の言葉へと押し出されるのです。

4、人は聖霊の働きを見ても、必ずしも素直には信じない

さて、この出来事を見た人々の反応は二つに分かれました。ある人々は驚き、戸惑い、「これはいったいどういうことなのか」と言いました。しかし別の人々は、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」とあざけりました。

ここが、なかなかリアルです。聖霊が注がれたら、みんなが感動して、みんなが信じて、みんなが拍手喝采した、とは書いてありません。神の働きが目の前で起こっても、あざける人がいたのです。

しかも「あの人たちは酔っている」という批判です。朝から酔っぱらっている扱いです。ひどい話です。けれども、これは今でもあります。福音を語ると、「それは弱い人の逃げ場でしょう」「宗教にすがっているだけでしょう」「古い考えでしょう」「科学の時代にまだそんなことを信じているのですか」と言われることがあります。

けれども、あざけられたからといって、福音の力が失われるわけではありません。むしろ使徒言行録は、ここから説教へ進みます。ペテロが立ち上がり、キリストの十字架と復活を語ります。そして多くの人々が悔い改めへと導かれます。

つまり、教会はあざけりの中でも語るのです。理解されないことがあっても語るのです。誤解されることがあっても語るのです。なぜなら、救いは私たちの評判によってではなく、神の言葉と聖霊の働きによって起こるからです。

私たちは、批判されない教会になりたいと思うことがあります。誰にも嫌われず、誰にも誤解されず、丸く収まる教会。それは気持ちとしてはわかります。私もできれば怒られたくありません。牧師も人間ですから、批判のメールより、差し入れのプリンの方が好きです。

しかし、福音を語る教会は、時に誤解されます。十字架を語れば、人間の罪を語らざるを得ません。復活を語れば、この世の常識を超える希望を語らざるを得ません。キリストだけが救い主であると語れば、「ずいぶん狭い」と言われることもあります。

それでも教会は語ります。なぜなら、十字架につけられたイエスこそ、罪人の救い主だからです。復活されたイエスこそ、死に勝たれた主だからです。天に上げられたイエスこそ、聖霊を注がれる王だからです。

5、教会の誕生日は、私たちが福音に生かされる日

「ペンテコステー教会の誕生日」。この題を聞くと、私たちは教会のことを考えます。教会がどのように始まったか。教会とは何か。教会は何をすべきか。それはもちろん大切です。

けれども最後に、もう一つ忘れてはならないことがあります。教会の誕生日は、教会という組織を祝う日ではありません。教会を生み出したキリストの恵みを喜ぶ日です。

教会は、罪人の集まりです。立派な人のサロンではありません。聖人だけのクラブでもありません。むしろ、逃げた弟子、裏切った弟子、疑った弟子、恐れた弟子、そのような者たちに聖霊が注がれて、キリストの証人とされたのです。

ということは、私たちにも望みがあります。

「自分は信仰が弱い」と思う人がいるでしょう。「昔は熱心だったけれど、今は冷めてしまった」と思う人がいるかもしれません。「教会に来てはいるけれど、心の中は散らかっている」と感じる人もいるでしょう。「自分の口から福音を語るなんて、とても無理です」と思う人もいるでしょう。

しかしペンテコステの日、主はそのような弱い者たちに聖霊を注がれました。彼らを責め立てるためではありません。彼らを新しく生かすためです。彼らをキリストの証人として立たせるためです。

聖霊は、私たちをただ元気にするエネルギーではありません。聖霊は、キリストを私たちに知らせ、キリストに結びつけ、キリストを語らせる神ご自身の働きです。聖霊は、私たちの心に「イエスは主である」と告白させます。聖霊は、罪を示し、悔い改めへ導き、十字架の赦しを信じさせ、復活の希望に生かします。

ですから、ペンテコステに私たちが願うべきことは、単に「教会が盛り上がりますように」ではありません。もちろん教会が元気になることは願います。しかしもっと深く、「聖霊よ、私たちにキリストを示してください。私たちを十字架の赦しに立たせてください。私たちの口を開いて、神の偉大な業を語らせてください」と祈るのです。

教会の誕生日に、私たちは自分たちの年齢を数えるだけでは足りません。「この教会は何年続いた」「この礼拝は何年守られた」。それは感謝です。しかしもっと大切なのは、今も聖霊がこの教会を生かしておられるかです。今もキリストの福音が語られているかです。今も罪人が招かれ、弱い者が慰められ、恐れている者が立ち上がり、神の偉大な業を語り始めているかです。

ペンテコステの日、弟子たちは家の中に集まっていました。しかし聖霊が注がれると、福音は外へ向かって響き始めました。教会は閉じた部屋の中で誕生したのに、誕生した瞬間から世界へ向かって開かれていたのです。

私たちも同じです。礼拝に集められ、御言葉を聞き、聖霊によってキリストを仰ぎます。そしてここから出て行きます。家庭へ、職場へ、学校へ、地域へ、病の床へ、悩みの中にいる友のもとへ。そこで大げさなことを言えなくてもよいのです。流暢でなくてもよいのです。ただ、神の偉大な業を語るのです。

「キリストは私の罪のために十字架にかかられました。キリストは死に勝って復活されました。キリストは今も生きておられます。この方に赦しがあります。この方に希望があります。この方に帰る道があります。」

これが教会の言葉です。これがペンテコステに与えられた言葉です。

教会の誕生日、おめでとうございます。しかし、ただ祝って終わりではありません。誕生日を迎えた教会は、また新しく生かされ、送り出されます。聖霊は今も、弱い私たちをキリストの証人として立たせてくださいます。

だから祈りましょう。

主よ、私たちの教会にも聖霊を注いでください。
恐れに閉じこもる私たちの心を開いてください。
内輪の言葉だけで満足する私たちを、隣人に届く福音の言葉へ導いてください。
十字架と復活のキリストを、私たちの真ん中に明らかにしてください。
そしてこの教会を、神の偉大な業を語る教会として、今日も新しく生かしてください。

ペンテコステは、教会の誕生日です。
そしてそれは、聖霊によって、私たちがもう一度、福音に生かされる日なのです。

※サムネイルはファン・パウティスタマイーノの「聖霊降臨」を元にAIが作製

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