使徒2章41~47節 中国天津に天津飯は存在しない

説教

使徒2章41~47節 中国天津に天津飯は存在しない

天津飯は中華料理なのか

「天津飯」という料理があります。
白いご飯の上に、ふわっと焼いた卵をのせて、そこに甘酢あん、あるいは関西なら醤油あんをとろりとかける。おいしいですね。私も好きです。

ところが、この天津飯、名前からするといかにも中国の天津市の名物料理のようですが、実際には中国天津の伝統料理ではありません。日本で生まれた、日本式中華料理です。

つまり、私たちは「これは中華料理だ」と思って食べている。しかし、本場の中国の人から見ると、「え、それ何ですか?」となるかもしれない。

もちろん、天津飯が悪いわけではありません。おいしい。立派な日本の食文化です。しかし問題は、「これは本場そのものだ」と思い込むことです。

今日の問いはそこです。
私たちのキリスト教は、天津飯になっていないでしょうか。

私たちは「これが聖書的な教会だ」と思っている。けれども、もし2000年前の使徒たちが私たちの礼拝に来たら、「これは一体何ですか」と首をかしげることはないでしょうか。

私たちが「これが寿司です」と言われて、カリフォルニアロールを見せられた時、「いや、まあ寿司と言えば寿司かもしれないけど……」と少し違和感を覚えるように、初代教会の人々が私たちの教会を見て、違和感を覚えることはないでしょうか。

宗教改革とは「聖書に帰れ」という運動

宗教改革とは、まさに「聖書に帰れ」という運動でした。

人間の伝統、教会制度、慣習、権威が、いつの間にか福音の上にのしかかっていた。そこで改革者たちは言いました。

教会が聖書を裁くのではない。
聖書が教会を裁くのだ。

バプテストも、その流れの中に立っています。幼児洗礼が教会と社会の制度の中で当然視されていた時代に、「いや、聖書に戻るなら、洗礼とは、福音を聞き、悔い改め、信じた者が受けるものではないか」と問い直しました。

バプテストは、宗教改革を途中で止めたくなかったのです。
「聖書に帰る」。その一点で、さらに先へ進もうとしたのです。

では、私たちが帰るべき原点はどこにあるのでしょうか。今日の使徒言行録2章41~47節は、教会誕生直後の姿を描いています。

初代教会の入口――悔い改め、信仰、洗礼

ペンテコステの日、ペトロは説教しました。
「あなたがたが十字架につけたイエスを、神は主またメシアとなさった。」

人々は心を刺され、「わたしたちはどうしたらよいのですか」と尋ねました。ペトロは答えます。

「悔い改めなさい。イエス・キリストの名によって洗礼を受けなさい。」

そして41節。

「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。」

ここに教会の入口があります。
血筋ではありません。国籍ではありません。家の宗教でもありません。文化でもありません。

悔い改めと信仰です。
キリストの言葉を受け入れ、洗礼を受け、キリストの民に加えられる。

教会は、イベント会場ではありません。地域サークルでもありません。宗教的な趣味の集まりでもありません。キリストの福音に応答した者たちの群れです。

初代教会の四本柱

42節には、その群れの中心が四つの言葉で示されます。

「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ること」。

これが初代教会の骨格です。

第一に、使徒の教えです。
教会は、まず教えによって立ちます。しかも何でもよい教えではありません。使徒の教えです。つまり、イエス・キリストの十字架と復活を証しする、使徒的な福音です。

第二に、交わりです。
これは単なる仲良しクラブではありません。キリストにあって結ばれた共同体です。信じた者たちは、互いの必要を覚え、分かち合い、支え合いました。

第三に、パンを裂くことです。
これは食卓の交わりであると同時に、主の晩餐、つまり聖餐を含む言葉です。教会は、十字架を記念する民です。イエスさまが裂かれた体、流された血によって私たちは赦された。その恵みを、パンと杯を通して繰り返し思い起こします。

第四に、祈りです。
教会は祈る群れです。祈らない教会は、神なしで教会を運営しようとしている教会です。会議はある。予算はある。計画はある。けれども祈りがないなら、それは教会というより宗教法人の経営会議です。

使徒2章は「完全コピーの写真」ではなく「設計図」

ここで注意しなければなりません。
使徒2章の教会を「原点」と言う時、何でもかんでもそのままコピーすればよいわけではありません。

46節を見ると、彼らは「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り」とあります。つまり初代教会は、まだ神殿礼拝に参加していました。ユダヤ教と完全に分離した後の姿ではありません。

彼らはユダヤ人でした。エルサレムにいました。神殿がありました。旧約の礼拝生活の中に生きていました。

では、私たちもエルサレム神殿に行かなければならないのでしょうか。もちろん違います。そもそも神殿は今、存在しません。そして新約聖書全体が明らかにするように、イエス・キリストご自身がまことの神殿です。キリストこそ、神と人が出会う場所です。

つまり、使徒2章は「すべてをそのまま真似せよ」という写真ではありません。
むしろ、教会の本質を示す設計図です。

そこには時代的・文化的な形もあります。しかし、その形を通して、変えてはいけない核が見えてくるのです。

変えてよい伝統――器は変わってよい

では、変えてよい伝統とは何でしょうか。

礼拝の時間は変えてよい。
日曜の朝10時半でなければ聖書的でない、ということはありません。

礼拝堂の椅子か畳かも変えてよい。
オルガンかピアノかギターか無伴奏かも、聖書が絶対の形を定めているわけではありません。

週報の形式、献金袋の形、オンライン配信の有無、看板のデザイン、牧師がネクタイを締めるかどうか。これらは文化であり、器です。

我孫子教会でも、数年前に礼拝で用いる讃美歌を1954年版の『讃美歌』から『讃美歌21』へと変えました。これは大きな変化でした。長く親しんだ讃美歌には、信仰の記憶があります。若い頃から歌ってきた歌、洗礼式で歌った歌、葬儀で歌った歌、涙と共に歌った歌があります。

ですから、変えることには痛みもあります。違和感もあります。「昔の方がよかった」と感じる方もおられるでしょう。それは自然なことです。

けれども、讃美歌集そのものは福音ではありません。
1954年版でなければ聖書的でない、ということではありません。
讃美歌21でなければ現代的で正しい、ということでもありません。

大事なのは、その歌が神を正しくたたえ、キリストの福音を曇らせず、会衆の信仰を建て上げるかどうかです。

変えてよいものは、福音をより明確に伝えるための器です。器は時代や場所に合わせて変わることがあります。

宣教師たちが日本語で聖書を訳したことも、変化でした。畳の上で礼拝したことも、変化でした。YouTubeで説教を配信することも、2000年前の教会にはなかった変化です。しかしそれ自体は悪ではありません。

問題は、器が中身を支配し始めることです。

天津飯は天津飯としておいしく食べればよいのです。けれども、「これこそ中国天津の伝統料理そのものだ」と言い張り始めると、おかしなことになる。

同じように、私たちの教会文化も大切にしてよい。しかし、それを「これこそ聖書そのものだ」と言い張ってはいけないのです。

変えてはいけない伝統――福音の核は変えられない

では、変えてはいけない伝統とは何でしょうか。

第一に、福音です。

イエス・キリストは神の御子であり、私たちの罪のために十字架で死に、三日目によみがえられた。この方を主と信じる者は、行いによらず、恵みによって救われる。これは変えてはいけません。

「今の人には罪という言葉は重いから、言わないでおきましょう。」
「十字架は残酷だから、愛だけを語りましょう。」
「復活は信じにくいから、象徴として扱いましょう。」

それは福音の翻訳ではありません。福音の改造です。
天津飯ならまだ食べられます。しかし、福音を改造したら救いは失われます。

第二に、聖書の権威です。

教会は聖書の上に立つのではなく、聖書の下に立ちます。私たちの経験、感情、時代の常識、社会運動、政治思想、教派の伝統、それらは聖書によって吟味されなければなりません。

福音派とは、そこに立つ群れです。
聖書が語るから語る。
聖書が沈黙するところでは慎重になる。
聖書が禁じるところでは立ち止まる。
聖書が命じるところでは従う。

第三に、洗礼と主の晩餐、聖餐です。

バプテストは、洗礼を「信じた者の洗礼」として大切にしてきました。使徒2章41節でも、言葉を受け入れた人々が洗礼を受けています。洗礼は、ただの入会式ではありません。古い自分に死に、キリストと共に新しく生きるしるしです。

そして、主の晩餐、聖餐もまた、教会が勝手になくしてよいものではありません。

「準備が面倒だから。」
「時間が長くなるから。」
「パンと杯の用意が大変だから。」
「最近はあまり意味が伝わらないから。」

そう言って聖餐式をなくしてしまうことは、あってはなりません。

もちろん、聖餐の頻度や方法については、教派や教会によって違いがあります。毎週行う教会もあれば、月に一度の教会もあります。パンの形、杯の配り方にも違いがあります。そこには一定の自由があります。

しかし、「主が命じられた記念そのもの」を捨てる自由は教会にはありません。

「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」

この主の言葉を、教会は軽んじることができません。
聖餐は、説教の後のおまけではありません。教会の飾りでもありません。十字架の福音を、目に見える形で味わう恵みの食卓です。

使徒信条――聖書の上に立つのではなく、聖書を要約する信仰告白

また、変えてはいけないものを考える時に、使徒信条にも触れておきたいと思います。

もちろん、私たちは福音派であり、バプテストですから、使徒信条を聖書と同じ権威に置くことはしません。使徒信条が聖書を裁くのではありません。聖書が使徒信条をも吟味します。

しかし、使徒信条は、教会が長い歴史の中で、「これが聖書の語る信仰の中心である」と告白してきた、大切な信仰の要約です。

父なる神。
天地の造り主。
その独り子、主イエス・キリスト。
聖霊による受胎。
処女マリアよりの誕生。
ポンテオ・ピラトのもとでの受難。
十字架、死、葬り。
三日目の復活。
昇天。
再臨。
聖霊。
聖なる公同の教会。
罪の赦し。
体のよみがえり。
永遠の命。

これは、単なる古い文章ではありません。
教会が教会であるための信仰の背骨です。

時代が変わっても、文化が変わっても、「イエスは良い先生でした」だけではキリスト教ではありません。「神は何となく愛です」だけでもキリスト教ではありません。

キリストは、まことの神であり、まことの人として来られ、十字架で死に、三日目によみがえり、再び来られる主です。この信仰を失うなら、教会は教会でなくなってしまいます。

使徒信条は聖書そのものではありません。しかし、聖書の福音から外れていないかを確かめるための、古くからの信仰の物差しなのです。

教会が教会である最低条件

では、教会が教会である最低条件とは何でしょうか。

立派な建物があれば教会でしょうか。
牧師がいれば教会でしょうか。
看板があれば教会でしょうか。
宗教法人格があれば教会でしょうか。

もちろん、それらは有益です。しかし最低条件ではありません。

教会が教会であるためには、少なくとも、キリストの福音が正しく語られ、信じる者たちが主の名によって集められ、洗礼と主の晩餐が聖書に従って守られ、互いに愛し合い、祈り、主の再臨を待ち望みながら世に証ししていることが必要です。

さらに短く言えば、教会とは、
「キリストの言葉のもとに集められた、キリストを主と告白する民」です。

そこに福音がなくなれば、教会は教会でなくなります。
そこにキリストが主でなくなれば、どれほど宗教的に見えても、教会の中心は空洞になります。

天津飯状態にならないために

私たちは何を悔い改めるべきでしょうか。

一つは、「自分たちの慣れ」を聖書と取り違えてきたことです。

昔からそうしてきた。
自分にはこれが落ち着く。
これが正統に見える。
けれども、それは本当に聖書の命令でしょうか。
それとも、私たちの天津飯でしょうか。

もう一つは、「変化」を恐れすぎることです。

天津飯は本場中国料理ではないかもしれません。しかし、だからといって食べてはいけないわけではありません。日本で生まれ、日本人に親しまれた料理です。

教会の文化的な形も同じです。日本語の讃美歌、日本の礼拝堂、日本の教会学校、日本の週報。これらはすべて、福音が日本の地に根を下ろす中で生まれた器です。感謝してよいのです。

ただし、器を福音そのものにしてはいけません。

讃美歌集は変えてよい。
礼拝の形式も工夫してよい。
伝道の方法も変えてよい。
しかし、福音は変えてはならない。
聖書の権威は変えてはならない。
洗礼と聖餐を捨ててはならない。
使徒たちが証ししたキリストを、別のキリストにしてはならない。

帰るべき原点は、生けるキリストご自身

私たちが「初代教会に帰る」と言う時、単なる古代趣味に帰るのではありません。ローマ時代の服装に戻るのではありません。神殿礼拝に戻るのでもありません。

私たちが帰るべき原点は、使徒たちが証ししたイエス・キリストです。十字架につけられ、復活し、今も生きておられる主です。

初代教会が美しかったのは、古かったからではありません。小さかったからでもありません。素朴だったからでもありません。

そこに生けるキリストがおられたからです。
聖霊が働いていたからです。
人々が御言葉に心を刺され、悔い改め、洗礼を受け、教えにとどまり、交わり、パンを裂き、祈っていたからです。

私たちもそこに帰りたいのです。

器は変えてよい、中心は変えてはならない

「中国天津には天津飯は存在しない」。

この少し変わった題は、笑い話で終わらせるためのものではありません。私たちの信仰を点検する鏡です。

これは本当に聖書から来ているのか。
これはただの慣習ではないのか。
これは福音を明らかにしているのか。
それとも、福音を隠しているのか。
これは変えてよい器なのか。
それとも、変えてはいけない核なのか。

教会は、常にこの問いの前に立ち続けます。なぜなら、教会は私たちの所有物ではないからです。教会はキリストの体です。キリストが血を流して買い取られた民です。

ですから、私たちは恐れずに変えてよいものを変えましょう。福音を届けるためなら、言葉を工夫しましょう。場所を工夫しましょう。音楽を工夫しましょう。方法を工夫しましょう。

天津飯のように、その土地で生まれる味があってよいのです。

しかし、変えてはいけないものは、命をかけて守りましょう。

キリストの十字架。
復活。
悔い改めと信仰。
御言葉の権威。
洗礼と主の晩餐。
使徒的な信仰告白。
祈り。
愛の交わり。
宣教の使命。

それらを失った時、教会は名前だけの教会になります。看板は残る。建物も残る。行事も残る。けれども、主の命が消えていく。

使徒2章の最後に、こうあります。

「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた。」

教会を成長させるのは、最終的には主です。私たちの工夫ではありません。私たちの伝統でもありません。私たちの熱心さだけでもありません。主が救われる人々を加えてくださるのです。

だからこそ、私たちは主の言葉に帰ります。福音に帰ります。使徒の教えに帰ります。交わりに帰ります。パンを裂くことに帰ります。祈りに帰ります。

そして、この日本の地で、日本語で、日本の文化の中で、しかし中身は2000年前から変わらない福音を語り続けるのです。

天津飯でよい部分があります。
けれども、福音まで天津飯にしてはならない。

器は変わってよい。
味つけは変わってよい。
しかし、主イエス・キリストという中心は変えてはならない。

教会の原点ゼロは、過去のどこかに冷凍保存された理想郷ではありません。今も生きておられるキリストご自身です。

この方の言葉に聞き、この方の十字架に立ち、この方の霊に満たされ、この方の体として歩む時、私たちは今日も教会であり続けるのです。

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